(161)電話線

「お母さん、イエス様はいつも死んでるの?」と聞いた女の子がいました。教会の中には、一年中十字架が掛かっています。祭壇の十字架上には、主の死んだ体の像があります。多くの教会では、聖餐式で与えられるパンの上には十字架のしるしがあります。それらは、私たちの主が世をあがなうためには、彼の死しか方法がなかったということ、聖餐式は彼の尊い死を永遠に記念するということ、そしてすべてのクリスチャンは聖金曜日を忘れないようにすることを示しています。

しかし、聖餐式では死んだキリストを受けているわけではありません。それは、復活して昇天し栄光を受けた、全く真実に完全な人間であり、生きた永遠に全能なる神、現在生きておられる主(34,35)とあなたとの交わりです。『私は命のパンである』と主は聖餐のことを言われました(ヨハネ6章51節)。そして、続けて『私を食べた者は永遠に生きる』とも言われています。聖餐式は命のサクラメントなのです。

聖餐は、あなたの霊魂が永遠に生きるように、と神様によって命じられた食物です。全ての命は食物に依存しています。聖餐は正しい食物であって、定期的にちゃんと食べていなけれぱなりません(147)。電車などに乗った時、電話線をよく見ます。その線は生きているようには見えませんが、『生きた線』です。いろんな会話や刊情報が行き来していますが、これは聖餐を思い出させます。もし電信柱が、そんなに遠くない間隔であるなら、電線は真っ直ぐで、不変の高いレベルです。もしこの間隔が離れていたら、電線はたわんで垂れます。切れそうで危険です。たとえ電話がつながっても、雑音などが入ってくるかもしれません。そして、もし切れたらどうなるでしょう。電線は地上をはいまわります。それは『死んだ線』です。これでは電話が通じません。これは、『定期的な陪餐』と、『不定期の陪餐』と、『陪餐することをやめてしまったもの』との比較です。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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