(153)一度、そしてすべてのために

問 :なぜ、その晩餐のサクラメントは定められましたか。
答 :キリストの犠牲の死とそれによって私たちが受ける恵みを常に記念するためです。
                     (同)

祝福されたサクラメント(聖餐式)は、ただ神様があなたに与えられる霊魂の食物のことだけではありません。あなたが神様に献げるものでもあります(148)。そして、サクラメントであるのと同様に、犠牲でもあるのです。聖パウロは言いました(使徒20章35節)。だから、祈祷書にこの問題についての最初の問いと答えがあるのです。聖餐(神様があなたに与えられる贈り物)について学ぶ前に、クリスチャンの犠牲(神様に対するあなたの献げ物)について学びましょう。

歴史の初めから(創世記4章3〜4節)、献げ物は行われて来ていますし、今も人間は神様の前に何も手に持たずに出ることはありません。ですから礼拝の中でも贈り物、犠牲を献げます。旧約聖書の時代を通じて、何百年も人間はこれらの犠牲を献げてきたのですが、それは不完全なものでした。よい人間は神様に受入れられるものを献げられるはずですが、その時代の人はみんな不完全だったのです。その時代の犠牲を新約の著者のひとりは『やがて来る良いものの影』(ヘブライ10章1節)、と表現しています。そして私たちの主が来られました。主は神、人間の中の最大の人間、完全な人間、人類を代表する人間であって、この方は十字架の上でご自身を献げられました。それは彼の完全な人間としての生と完全な人間としての死でした。ですから、『唯一の全き供え物』という風に以前の祈祷書では唱えていました。世界全体の罪のために完全な犠牲となられたのです。昇天日に主は天に帰られました。天国で、主は今日もそして時代の続く限り、主が聖金曜日に一度ゴルゴタの丘で献げられた犠牲を、すべての人類のために献げ続けておられるのです(ヘブライ7章23〜27節)。

そして、主は常に私たちの犠牲として、祭壇のサクラメントの中にも本当に現臨しておられるのです。聖餐式の中で私たちは、主が天国で行われているように行っています。礼拝堂のあなたの見慣れた祭壇の場所に丘と三つの十字架があります。私たちはいつもそこに登り、十字架の下にひざまずいているのです。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

楽しい問答会