(151)キリストの体

私たちは聖木曜日の夜の、聖マルコの父の家の二階の広間にいます。私たちの主はパンを祝福し、すぐ次の日に十字架の上でご自分の肉体力が割かれることを暗示するように、パンを割かれます。主は、まさに世界で最初の聖餐式を行おうとしておられます。主は、右にいる聖ヨハネの方を振り向かれました。

弟子の手に、主は単なるパンの切れっぱしのようなものを渡します。そうしながら主は言われました。「取って食べなさい。これは私の体です。」(「これは私の体のようなものです。」とも「私の体をあなたに思い出させるものです。」とも言わず、「これは私の体です。」と言われました。)あなたは、聖ヨハネがそれを聞いて当惑したと思いませんか。私は何となく想像できます。「見るからに、そして味わってみても、パン以上のものではないのに、これがどうして、どうやってキリストの体になるんだろう。私が知り、大変愛しているキリストの体は私の近くに立っているではないか。私はすぐに手を差し出せるし、触れられるではないか。」あなたには想像できませんか。私にはできます。聖ヨハネはこのようにずっと考えていました。「私にはこれがどのようにして主の体になるのかわからない。どのようにして杯の中のこれが主の流された血になるのかわからない。だが、私は私の全生涯を通して、彼が救い主、神の子だと知っている。だから、彼が言ったことは何でも彼の言ったとおりの意味を持っていて、それ以上でもそれ以下でもない、と私は信じている。『これは私の体、これは私の血。』確かに言葉は明快だ。私にはどのようにして、パンとぶどう酒が彼の言ったものになったのかわからない。私には天国に入るまでわからないだろう。しかし、彼についての他のことは真実だ。だから、私が食するこの簡素な食べ物と飲み物は、何か神秘的な方法で、完全な命(血は命のしるし)となり、主イエスご自身が私の霊魂に入って来られる、と私は信じられる。この聖餐によって、主と私は以前より親しくなったし、我々はふたりではなくひとつである、と私は信じる。なぜなら、彼は真理そのものであると、ご自身が言われたのだから(ヨハネ14章6節)。」

そして私たちの主は、このあと聖ヤコブ、聖アンデレ、聖マタイ、聖ペトロ、そしてほかの六人にも渡されました。恐らく彼らの考えも、ほとんど同じだったのでしょう。確かに彼らの信仰は同じでした(使徒2章42節、20章7節、27章35節)。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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