(116)公衆電話

個人懺悔のサクラメントを行うこと、つまり司祭を通して神様にあなたの罪の告白をすることは、決して簡単なことではありません。それは、私たちがすべてを話さなければならないからです。*『これらおよび多くの記憶しない罪』と個人懺悔のサクラメントの時には言います。そのことによって私たちは赦しを与えられます。しかし、あなたが覚えているもので、言う勇気のないものは赦されません。ですから、あなたの助けになることをいくつか話します。

司祭は、個人懺悔で聴いたことを本人にも他人にも話すことは許されていません。たとえその人か死んでもです。これを『個人懺悔の封印(シール)』と言います。あなたが勇気を出して言ったことは永久に封印されます。もし、(これは良くないことですが)少年が先生のカップに毒を入れたとして(67)、少年は、個人懺悔に行って話しました。もし、警察が少年を見てあやしく思い、そして司祭に「彼は個人懺悔しましたか」と問う時、司祭は「はい」とも「いいえ」とも言うことは許されていません。もし、あなたが司祭に個人懺悔の中で「私はお母さんの財布から五百円盗みました。」と言うと、司祭は改心と痛悔の証拠として、「返しなさい」と言います。あなたは「そうします」と答えます。その後は、もう司祭はお母さんに告げることは許されていません。たとえ彼女が問うても答えません。司祭があなたに約束を守ったかどうか問うことができないように、あなたの個人懺悔はあなたと神様との間だけのことです。それが終われば封印は決して破られません。

町の公園に公衆電話のボックスがあります。大勢の人がそこから電話します。たとえばあなたがそこから誰かに電話して、出てきました。つぎに私が入って受話器に耳を当てます。しかし、その電話機は私には何もあなたの話をしゃべってくれません。(あたりまえですね)これが個人懺悔を聴く司祭の姿です。私たちが神様に罪を告白するために、そして赦しの言葉を聞くために神様によって造られた道具、それだけです。それ以上のことはありません。だから個人懺悔を聴く司祭は神様の公衆電話みたいなものです。

*祈祷書298ぺ一ジの個人懺悔を参照してください。

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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