(62)六日間は労働の日

しかし、日曜日は、月曜日の朝へと続きます。既に第四の戒めで、日曜日と同様に月曜日についても、いくらか語ってきました。六日間は、私たちが労働する日です。そして私たちの神様に対する義務は、真実に私の生活のすべての日を通して、神様に仕えることです。私たちは神様への責任をはたすためにすべての時間を使うのです(60)。

神様への真実の奉仕は、『礼拝』と同じくらい『労働』でもあるのです。私たちは日曜日だけの、そして教会の中だけのクリスチャンではありません。神様はアダムにするべき労働を与えられました(創世記2章15節)。天国にもちゃんと仕事があります(黙示録22章13節)。しかし、楽しいはずの仕事は、罪のために、厳しく疲れさせるものになりました(創世記3章18〜19節)。悪魔は、人間に仕事を怠けさせようとします。人々が仕事から離れた時とか、退屈したり、逆に休みなく働いた時とかには、人は、誘惑を受けやすくなります。私たちの主はナザレにおられた時、大工の家で働かれました。彼の母は労働する婦人でした。主は、生活のために働く貧しい両親の子供であることを恥ずかしいとは思われませんでした。絵の女の子は、月曜日の朝、うつむいて学校に向かっていますが、毎朝お祈りしたことを忘れていないでしょうか。『み心が天で行われるとおり、地にも行われますように。』学校へ行かなければならないのは、神様のみ心ではないのですか?もちろん、み心でしょう。六日間は、あなたの労働の日です。

私はあなたに、この話の意味がわかると思います。病院では、16歳の女の子が死にかけています。彼女の母は、彼女が6歳の時に死にました。だから、彼女は父とふたごの妹のめんどうを見なければなりませんでした。彼女のこの短い人生は、他人のために厳しい労働をするだけの人生でした。教会へ行ったり、カテキズムの勉強をする時間はありませんでした。映画を見たり、ゲームをしたりする時間もありません。16歳だというのに、彼女は疲れきり、彼女の手は老人のようにひび割れて、しわがよっていました。ベッドに寝ている彼女の所にちょっといいかげんな婦人が行きました。「あなたは堅信を受けているのですか?」「いいえ」「あなたは教会へ行くの?」「いいえ」「あなたはお祈りするの?」「そんなにしばしばはしません」「それじゃあなたは自分が死んだ時、どうするんですか?神様にこのことを全部言えますか?」全生涯を他人のために献げたその少女は、かけぶとんの上の彼女の痩せた手を見て答えました。「おばさん、私は神様に私の手を見せます。神様はわかってくださると思います。」

(H.A.ウィルソン著「チョークと子供たち」より)

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