聖書の人物

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 フェストゥス(使徒言行録より)

『パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」パウロは言った。「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。』(使徒言20・7〜9)

ポルキウス・フェストゥスは、フェリクスの後をついでユダヤを治めるローマ総督となった人である(後60〜62年)。短期間の在任ではあったが、パウロの裁判に関し、彼のローマ皇帝への上訴を許可したことで知られる(使徒言行録25・24以下)。

フェストゥスは皇帝に上書すべき材料を得るため、ユダヤの王アグリッパU世およびその妻ベルニケとの前で、パウロの取調べを行なったが、その折のパウロの弁明は、使徒言行録26.2以下に、ルカによって記録されている。それによると、パウロはたいへん礼儀正しい口調で自分の経歴から述べはじめ、ダマスコ途上での回心の経験、福音の伝道者としての召命とその実績について語っている。ところが、このパウロの弁明が、キリストの十字架と復活というクライマックスに達するや、フェストはもはや我慢しきれず大声で叫んだ、「パウロよ、おまえは頭がおかしい。学問のしずぎで、おかしくなったのだ」と。

総督フェストゥスにとって、パウロの博学多識と、彼の無罪は明らかであった。彼はユダヤ人の告訴するような重い罪は何も犯していなかった。だが、この清らかな教養人パウロの中に、フェストゥスにはまさに狂気のさたとしか思われないもの ― しかもそれがパウロのいのちであるもの ― が厳存していた。それは、キリストの十字架と復活に関する思想と信仰であった。キリスト教信仰の極致の真理が、人間の英知の感覚においては「狂気のさた」か「愚か」としか思われないこと ― それは昔も今も何ら変わってはいない。

「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(コリントの信徒への手紙一 1・21〜24)。(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)

写真は、フェストゥスが滞在していたカイサリアの港跡です。
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