聖書の人物

(84)

 パウロ(使徒言行録より)

『さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』(使徒言9・1〜5)

サウロ(またの名はパウロ)は、熱烈なユダヤ教徒としてパリサイ派に属し、律法に厳格に従う生活をしていた。彼はナザレのイエスと同年輩であるが、小アジア・キリキア州の首府タルソの生まれで、イエスに出会ったことは一度もない。裕福な商人の家に育ち、父親ゆずりの社会的特権としてのローマ市民権を有し、抜群の秀才としてエルサレムに遊学中であった。この前途有為な青年の目に、当時生まれたばかりのキリスト教はどのように映じたか。

それはまことに奇怪な迷信と無知の入り交った土俗的な邪教であった。ゴルゴタの処刑場でついこの間、木にかけられて死んだ狂信的犯罪人を、「神の子」「キリスト」として信奉するといったことは、イスラエルの純正な歴史を尊び、聖書にしるされた神の言葉に忠実であろうとするサウロのような人にとっては、絶対に容認することのできない、ユダヤ教の恐るべき異端であった。こうして彼は、みずから望んでキリスト教徒を迫害する指導者となった。

「主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら」とか、「この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱってくる」といった表現は、まるでサウロが元来凶暴な人間であったかのような印象すら与える。しかしサウロがキリスト教徒たちを弾圧し、迫害したのは、彼の性格の凶暴性とか、あるいは“警察的”職務意識の強烈さなどによるのではない。それは、彼の宗教的熱心と、その神学的確信にもとづくものであった。そして、こうした信念からくる弾圧や迫害行為の恐ろしさは、無頼の徒の暴行や意地わるい官憲のいやがらせと比べてぐんと底が深く不気味なのである。(使徒行行録8・1参照)

ダマスコ途上、サウロが経験した神秘的な事件の核は、復活のイエスの言葉との特別な触れ合いであった。サウロはそれまで、ナザレのイエスに関する史実は知っていた。しかし過去の史実としてのイエスではなく、いま生きている復活のイエスに出会わされたとき、サウロは、「主よ、あなたは、どなたですか」とたずねざるをえなかった。イエスについて知っていることと、イエスを知ることとはまったく別なことであった(コリント第U・5・16〜17)。

「主よ、あなたは、どなたですか」(Who are you, Lord?)。このまったく新しい問いをもって、サウロはイエスとの関わりの中に足を踏み入れる。「あなたはどなたですか」―― この問いは、「あなたがたはわたしをだれと言うか」(マルコ8・29以下)というイエス自身の弟子たちへの問いと深く切り結び、イエスと人間との創造的な出会いの道をさし示す。そこでは教会やキリスト教徒に関する偏見と予断が排除され、イエスに対する安易な宗教的尊称も戒められるのだ。

ユダヤ教のエリート青年サウロは、特に召されてこの道を自覚的に歩ましめられる人となった。彼こそ、後の使徒パウロである(ガラテヤ人への手紙1・11以下、使徒言行録26・2以下参照)。(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)

この絵は、テリエンの「聖書物語」に出てくる挿絵です。
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