聖書の人物

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 イエス(ヨハネ福音書より)

『イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。』(ヨハネ21・25)

イエスの言行は福音書にしるされた以外にも数多いので、それら全部をまとめるとすれぱ世界をもはみ出すほどになる ―― というヨハネ福音書末尾のこの言葉は、イエスに対する著者の最大級の敬愛の表現としては理解できるが、客観的に考えれば、少々誇張がひどすぎると思われるだろう。イエスの生涯はわずか30数年、しかも公的に活動した期間はほんの2〜3年であり、その主な行動範囲はパレスチナの東西南北150キロメートル以内、どんなに多くのことを彼が行なったにせよ、その絶対量は限られていたはずである。

だが、キルケゴールが言うように、イエスがこの地上を歩んだという出来事は、それが終わるとまず歴史の中に移され、やがて遠い過去の事件となり、そしてついには忘却の中に沈んでゆくという、他の出来事と同じような出来事ではなかった。この地上に信仰が存在し、ただひとりでも信じる者がいるかぎり、イエスの地上におけるあの現存は決して過去のものとならない。なぜなら、信仰とは、いつの時代にあっても人間がイエスと同時的になるということであり、「この同時性が信仰の前提である。もっと厳密に言えば信仰そのものである」(『キリスト教の修練』)からである。

したがって、イエスとの出会いは、ただ単に過去の一定の時期、特定の地域のかぎられた人々だけに限定されない。福音書の人々とイエスとの出会いは、そのひとつひとつを核としながら、人間の歴史の中で多種多様に細胞分裂し、発展し、全世界のそれぞれの地域に即して展開しつづけるであろう。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」とは、マタイ福音書末尾にしるされた復活のイエスの言葉である。それに対して人は希求するだろう、「主イエス・キリストよ、どうぞわたしたちをも、そのようにあなたと同時的にし、あなたのほんとうのみ姿を見せてください。空疎で虚しい、あるいは無思慮で狂信的な、あるいは歴史的で多弁を好む回想があなたをゆがめてしまったあの姿ではなく、あなたがこの地上を少まれた時のままの、現実のただなかにいらっしゃるそのみ姿を……〔見せてください〕」(キルケゴール)と。

唯一度きりの史的人物としてのイエスと、信じるすべての人間と世の終わりまで共存するという復活のキリストとの二重性、このイエス・キリストの関わりを証しすることが、キリスト教と教会の究極的な課題である。(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)

この絵は、586年にシリアでできた聖書詞華集の刺し絵の一部である。
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