- 『十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』(ヨハネ20・24〜25)
- 十二弟子のひとりトマスは、「私たちはイエスを見た」という他の弟子たちの証言を信用しなかった。見るだけではだめだ、幻を見ることだってある。早朝うす暗い墓のそぱでの婦人たちの証言なども当てにはならない。もしイエスがほんとうに復活したのであれば、彼を見るだけではなく、そのからだに触れ、自分のこの手と指でそれをたしかめたい。そうでなければ私はイエスの復活など決して信じない ――― こう彼は主張した。まことに“現代的な”感覚の人である。
- マタイの記録では、ガリラヤの山で復活のイエスが11人の弟子たちに出会ったとき、彼らの中には「疑う者〔たち〕もいた」と書かれている(28・17)。とすると、トマスのような考え方をする者が他にもいたのであろう。
- 復活のイエスの問題をめぐるこうした弟子たちのさまざまな対応は、「イエスの復活は彼の十字架の死が疑うことのできない事実であったのと同じ意味での事実ではなかった」ことを物語っている。目のあたりそれに接した者たちの中にすら、「疑う者たち」もおり、同行し、語り合い、その姿を注目しても、イエスとはまったく気づかなかった場合もあるからである。とにかくこれらのことは、復活のイエスの顕現がすべての人にとって自明的で、客観的な事実ではなく、きわめて特殊な、主体的出来事であったことを示している。つまりそれは、見える人にだけそれぞれの仕方で見えたのである。
- 疑うトマスに対し、イエスは8日の後、復活者として出会う。「わが主よ、わが神よ」とひれ伏して告白するトマスに、「あなたは見たので信じたのか。見ないで信ずる者はさいわいである」とイエスは言う(20・29)。これもまた、イエスの復活が五官による実証的な認識の対象ではなく、彼と弟子たちとの信頼関係にもとづく、信仰的確認であったことを教えている。(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)
- この絵は、テリエンの聖書物語に出てくる、イエスが弟子たちにご自身の手の傷跡を示している場面である。
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