- 『ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った』(ルカ15・11〜20)
- 有名な放蕩息子のたとえ話である。こういう話が自由自在にできたとすれば、イエスは、荒野の禁欲生活に身を打ち込むような聖者のたぐいの人物ではまったくなかったことがわかる。
- とにかくここに現れる弟むすこは、自分勝手で無計画な男である。したい放題のことをしてその結果どん底にまで落ち込んでしまった。最後のどたんばで、彼はやっと正気に返る。やさしい父親に対してほんとうに申し訳のないことをしたという悔い改めのまごころだけを携えて、彼は着のみ着のままふるさとの家へ帰るが、そこで待っていたのは、あふれるばかりの父の愛であった。恥じ入るむすこを抱きかかえて接吻し、最上最高の歓迎の宴を催したこの父親は、何という過保護な父親であったことか。だがイエスは、このたとえによって、神の国の真理を説いた。それは、放蕩息子に対する兄の態度との関連において明らかとなる。(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)
- この絵は、レンブラントの『放蕩息子の帰宅』です。サンクトぺテルブルクのエルミタージュ美術館にあります。
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