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聖書の人物
(43)雅歌の作者について(雅歌より)
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- 雅歌には「ソロモンの雅歌」という表題がついており(1・1)、彼の名が何度も出てくるが、この書の成立も箴言やコヘレトの言葉と同様、ずっと後代とされるので、ソロモンの作とはとうてい考えられず、著者は不明である。雅歌は男女の愛をうたうイスラエルの通俗的詩歌をまとめたもので、その表現はおおらかで美しく、文学的にも高く評価される。旧約聖書の本流をなす神の尊厳と人間の罪、きびしい神の律法とさばき、預言者たちの雄叫び、地の底からのうめきのようなざんげの祈り、来たるべき神の国への痛切な待望 −−それらとはまったく無縁な世界の事柄のようにこの雅歌では、愛しあう男女両性の喜びと幸せが何のこだわりもなく赤裸々に描かれる。ここではまるで、人間の堕罪などなかったかのごとくである。そのことから、雅歌は、神とイスラエルとの和合、あるいはキリストと教会との間のうるわしい愛の比喩として解釈することもできる。この恋愛歌集をそのように神学的に解釈することは、たてまえ論であり、個々の詩句を読むかぎり、これは純然たる男女の愛の詩歌集として受けとる方が、より自然である。たしかに神の永遠な愛の相の下では、人間男女の愛など、「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草花」にすぎない。だが、そのようなものさえ「神はこのように装ってくださる」こと、それはイエスの福音のひとつのたまものであったのではなかろうか(マタイ6・30参照)佐伯晴郎著「聖書の人々」より)
- 今回は、雅歌について、10年前、雑誌「BRUTUS」の特集の中で紹介された「事実上発禁の憂き目にあった、肉体讃美と愛の詩、雅歌」という記事を引用します。
- 雅歌に関しては解説など不要。「あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ、右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに」というストレートな男女の恋愛の詩である。神とイスラエルの愛の関係を象徴しているとラビ・アキバが主張し、旧約正典に加えられたのだが、「気高いおとめよ、サンダルをはいたあなたの足は美しい。ふっくらとしたももは、たくみの手に磨かれた彫り物。秘められたところは丸い杯、かぐわしい酒に満ちている」(新共同訳)という天真爛漫な肉体讃歌ゆえにユダヤ教では満30歳になるまで読んではいけないとされ、キリスト教国でも教会で読み上げられたり学校で教えるのははばかられてきた。そして日本でも、ヴンダーリッヒの美しい石版画を用いた秋吉輝雄訳の『雅歌』(ゴルゴオン社、72年)はキリスト教関係専門の日キ版から取次を拒否され、事実上の発禁の憂き目にあった。深い知識に裏打ちされた名訳がこんなことで埋もれるのは本当に惜しいことである。
- 「ねえ君、楽しみの中にいて、君の立つ姿はナツメヤシ。乳房はその実の房のよう。ナツメヤシに登り、その房をにぎってみたい。君の乳房がブドウの房のようで、君の息の香はあんずのようで、ささやきは恋人へ、花園へとながれ、眠れる者の唇にひそかに流れる香わしい酒であるように」(7章)という秋吉訳のどこに不都合があるというのだろう? ヴンダーリッヒの絵が露骨だというなら、それも料簡の狭いことに思われる。
- この写真は、中央が秋吉輝雄訳のものです。ヘブライ語は、「詩(複数)の中の詩(単数)」と書かれていて、これは英語の "song of songs " が、1番忠実な訳でしょう。日本語は、意味を解釈して、「雅歌」と名付けたのでしょうか。
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