|
聖書の人物
(40)詩編の作者について(詩編より)
|
- 詩編は150編からなるイスラエル民族の信仰歌集であり、編集上は5巻にまとめられているが、その内容はさまざまで、個々の詩の成立年代も内容から推察する他なく、作者たちの名も不明である。ダビデの歌とかコラの子の歌といった表題も、伝説によってつけられたもので作者を明示するものではない。しかし、詩編全体をつらぬく根本的テーマは主なる神に対する絶対的信頼であり、それは一つの源から発する清流のように、あるときは小川のせせらぎとなり、あるときは激流にもまれ、時には危険な滝つぼや淵に沈みながら、ひたすらに主を信じ、主にすべてを期待する信仰者の生の、あらゆる局面をうたう感動的な祈りの詩集を形づくっている。詩編はまさに、人間の「霊魂のすべての部分の解剖」と言われるにふさわしい。そこには美しい詩だけでなはなく、「復讐の詩編」と呼ばれるような、自分に敵対する者の不幸を祈るまことに人間臭い祈りすら含まれている。
- エホバはわが牧者なり、われ乏しきことあらじ。エホバは我をみどりの野にふさせ、いこいの水浜(みぎわ)にともないたもう。エホバはわが霊魂(たましい)をいかし御名のゆえをもて我をただしき路にみちびきたもう。たといわれ死のかげの谷をあゆむともか禍害(わざわい)をおそれじ、なんじ我とともに在せばなり(23・1〜4)。 ああ神よ、しかの渓(たに)川をしたい喘ぐがごとく、わが霊魂もなんじをしたいあえぐなり。わがたましいはかわけるごとくに神をしたう、活ける神をぞしたう。いずれのときにか我ゆきて神のみまえにいでん(42・1〜2)。 神のもとめたもう祭物(そなえもの)は、くだけたる霊魂なり。神よ、なんじは砕けたる悔いしこころをかろしめたもうまじ(15・17)。
- 主よ、・・・・・なんじ人を塵にかえらしめたまわく、人の子よ、汝ら帰れと。汝の目の前には、千年もすでに過ぐる昨日(きのう)のごとく、また夜の間のひとときに同じ。汝これらを大水のごとく、流れ去らしめたもう、彼らは一夜の眠りのごとく、朝(あした)に生えいずる青草のごとし。あしたに生えいでて栄え、夕べには枯るるなり。・・・・我らが年を経る日は七十歳(ななそじ)に過ぎず、あるいは健やかにして八十歳(やそじ)にいたらん。されどその誇るところは、勤労と悲しみとのみ、その去りゆくこと速やかにして、我らもまた飛びされり(90・3〜10)。 若き人は何によりてか、その道をきよめん、御言葉にしたがいて、つつしむのほかぞなき。・・・・汝の御言葉は我を活かししがゆえに、今もなおわが悩みのときのなぐさめなり。苦しみにあいたりしは、我によきことなり、これによりて、われ汝の律法(おきて)を学びえたり。・・・・なんじの聖言(みことば)はわが足のともしび、わが路のひかりなり(119より抜粋)
- ああエホバよ、われ深き淵より汝をよべり。主よねがわくはわが声をきき、汝の耳をわが懇求(ねがい)の声にかたぶけたまえ。・・・・我エホバを挨(ま)ち望む、わが霊魂はまちのぞむ、われはその聖言によりて望みをいだく。・・・・イスラエルよ、エホバによりて望みをいだけ、そはエホバにあわれみあり、また豊かなる救贖(あがない)あり。エホバはイスラエルを、そのもろもろの邪悪よりあがないたまわん(130より抜粋)(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)
- 詩編を単なる歌と区別するため、ダビデは楽器を発明したと言われています。ヴェネツィア地方の大聖堂にあった、この15世紀ミラノのフレスコ画から、神の創造の業を賛美するダビデの姿を想像することができます。(ジャック・ミュッセ著 「旧約聖書ものがたり」創元社より)。
|