聖書の人物

(1)アダム(創世記より)

『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。』(創世記2・7〜8)

創世記の神話において、最初に神によって創造された「人」を、ヘブル語でアダムというが、これは特定の個人名ではなく「土」(アダマ)に由来する語である。人間は土からつくられ、ついには「土に帰る」(創世記3・19)。土のちりとは大地自然の産物ということである。地上のあらゆる生物、植物、動物と同じように、人間もまた大自然の産物であり、その肉体的構造、その生成発展の歴史、その未来の可能性のすべてを含めて、人間は大地自然に即して生き続ける小さな生命にすぎない。

だが聖書は同時に、人間は神から命の息(この原語ルアハは「霊気」とも訳せる)を吹き込まれている、と語る。このことが他の生物との決定的な相違であり、神との関わりを持つ主体的な自己としての、人間の独自性であろう。人間とは神の息を吹き込まれている土の器である。これが人間に関する聖書の第一声であり、聖書全巻のテーマは、エデンの園に始まるこの人間の運命の追求である。

『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』(創世記2・18)

土から造られてはいるが神の息を吹き入れられている人間は、単なる動物的雌雄関係にとどまることはできない。人間を男と女という相互主体的な人格関係とすることは、神の人間創造におけるイメージであった。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1・27)。「あらゆる生物が雌雄に分かれていること、新しい生命を産出するためにはつねに両者の協力を必要とすること、は最大の秘義の一つである。人間にあっては、そして人間においてのみ、夫婦は新しい生命を生むためにだけいっしょになるのではなく、すでに彼ら自身の人格的な生において新しい全体となって成長するという意味において、この協力は更に決定的な歩みを進めている」(T・ボヴェー)。

こうして人は、男女、夫婦、家族、社会という、よりひろい人間関係へと発展成長していく。男と女、その共存、それは聖書によれば神の創造の秩序である。だから人はすべて「ふさわしい助ける者」を希求する。「賢い妻は主からいただくもの」(箴言19・14)といわれるが、それは夫についても同様であろう。(佐伯晴郎著「聖書の人々」より)

この絵は、ヴァチカンのシスティナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロの天地創造の一部です。

熊本聖三一教会