第25章 次に何が起こるの?
「わたしの死を死ぬことは、わたしにかわってほかの誰にもできないことなのである。」(マルチン・ハイデッガー)

「わたしは既にわたしの創造者に会う用意ができている。わたしの創造者がわたしに厳しい試練を用意しているかどうかは、別の問題である」(ウィンストン・チャーチル卿 75歳の誕生日に)

死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます。(ニケヤ信経)

死は感動を呼ぶ、魅惑的なことがらです。以前には、それについて話すことは、無作法なことと考えられていました。しかし、今や死や死にかかわることの本はベストセラーの上位を占めており、死や死に近づいていることを語ることは、普通のことです。

教会は、常に死について話す準備をふたつのレベルでおこなってきました。第1には、避けることのできない出来事としてのわたしの個人的な死です。第2は、同じく避けることのできない、わたしたちの知っているこの世界の死です。

死んだら何が起こるの?

一般的な神話によると、わたしたちが死ぬと、わたしたちの魂は体から出て、どこか別の所に行きます。善い人々の魂は天国に行き、永遠の至福に入ります。悪い人々の魂は、地獄へ行き、永遠の苦しみに入ります。わたしたちのほとんどにとって幸いなことに、これは教会の視点ではありません。聖公会の死についての教えは、他のことと同じように、聖書の中に含まれています。

旧約聖書は、死後については何も語っていません。旧約の何冊かの書物は、Sheol(陰府)について語っています。Sheol(陰府)は、一種の影のような存在ですが、生命と見なすことはむずかしいようです。

新約聖書は、来世について語っています。しかし、新約聖書の記者たちは、この来世を、別の生命として見ているのではなく、わたしたちが復活したイエス様と現在分かち合っている生命の継続としてとらえています。彼らは、生命の質を「永遠」と呼んでいるのです。

たとえば、聖ヨハネは、永遠の生命についてたくさん語っています。彼はイエス様のことを説明して、こう言っています。「・・・わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5・24)ヨハネにとって、永遠の生命を得ることは、イエス様を通して、永遠の神様の生命を分かち合うことで、それは現在経験するもので、わたしたちが死んだ後にだけ起こるものではないのです。永遠の生命は不滅のもので、それをすでに持っている人は、死によって滅ぼされるとは考えられないようなものなのです。

しかし、教会はもっと先を行っています。信経の宣言のように、わたしたちは体のよみがえりを信じているのです。

体のよみがえり

ところが、一般的な神話は、時々それが教会の教えであるかのように思われていて、永く死んでいた体が墓から起き上がるという幻想が、多くの知性のある人々を、この教えから退けさせてきました。最も基本的な食物連鎖の知識が、わたしたちに示すことは、もしこの広く好まれた神話が正しければ、ラッパの音が響く時、たいへん多くの魂が、同じリサイクル品をめぐって、争奪戦を始めるだろう、ということです。

しかし、幸いなことに、教会も新約聖書も、このような考えを奨励していません。

わたしたちクリスチャンの体のよみがえりについての信仰の根拠は、イエス様の復活によっています。神様はイエス様を死からよみがえらせ、キリストにある人々は、彼の復活の生命を分かち合っている、というのがクリスチャンの信仰です。第10回で学んだように、復活したイエス様のことを、弟子たちは最初、気づきませんでした。しかし、復活したイエス様と語り合い、食事をしている時、それが彼らが以前に3年間従い、信じたのと同じイエス様であると、確信したのです。彼の外観の様子は何か違っていても、彼の人格、"真のイエス"は、同じでした。これが信経の言う「体のよみがえり」です。わたしたちが死んだ時、イエス様のようにわたしたちも特有の人格を保持しているのです。わたしたちは継続して、わたしたちの頭の髪の毛の数を知り、個人個人を知っている神様によって愛され、養われてゆくのです。

わたしたちには、それ以上知ることができるでしょうか。わたしたちは、それ以上知る必要があるでしょうか。決してあきらめることのない神様が、わたしたちの単なる死くらいのことで、私たちのことをあきらめたりしない、ということを知っていれば十分ではないでしょうか。

パウロは、コリントの教会にあてた手紙の中で、もっと知りたい人に語っています。彼は体の復活を、自然から類推して説明します。『しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(Tコリント15・35〜44)

しかし、教会が死について語ることは、これがすべてではありません。

「わたしの興味あることは、死のあとに生命があるか、ということではなく、死の前に生命があるはずだ、ということである。そして、この生命は善いもので、単に死から生き延びるとか、絶えることのない死への恐れなどではない。」(フェルナンド・セイバター)

世の終わり

時々誰かが、聖書に訴えて、世の終わりを告げ知らせます。神様の支配によってこの現在の時代がかえられるということを聖書は確かに主張していますが、ただ彼らの誤りは、その日時に執着してしまっている、ということです。

これはわたしたちクリスチャンの希望のもうひとつの側面です。わたしたちはキリストにある復活を待ち望んでいますが、それとともに「来世の命」も待ち望んでいます。その時、歴史の進行は絶頂に至り、神の国が、その豊かさの中で、経験できるのです。

イエス様は、この王国の到来を、言葉に描きながら表現しました。夜盗人が来るようにやってくる(マタイ24・43)、あるいは、予期できない花婿のように(マタイ25・13)、集めて燃やされる麦の収穫(マタイ13・30)のように。それは結婚披露宴(マタイ24・1〜4)、洪水(24・37〜39)、すべての男女が、自分は本当はどんな存在であるかを見せられる審きの日(マタイ25・31〜46)のように。

この説明の豊富さは、王国についてのわたしたちの予測が、文字どおりに考えてしまわないようにという、警告のはずです。イエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である。」(マルコ13・32)と言われました。

重要なことは、神の国がいつ、どのようにして来るのか、ではなく、それが来て、その時には、すべてのものが新しくなる、という知識を持っておくことです。

「ひとたび人間が神様に結ばれたなら、彼は、どうやって、永遠に生きられない、と言えるだろうか。ひとたび人間が神様と別れてしまったら、彼には何ができるだろうか。衰えて死ぬしかないだろう。」 (C.S.ルイス)

審判

「そこから、主は生きている人と死んだ人とを審くために来られます。」(使徒信経)

教会は歴史 ― 世の歴史とわたしたち個人の歴史 ― を教えますが、それには終わりがあり、歴史の終わりには審判があります。

過去の時代の人々は、審判を火、痛み、恐怖のイメージで描きました。そのようなイメージは、地獄の火の説教者の道具でした。異端者や"魔女"は、誤った信仰の中で拷問され、焼き殺されました。それは、来たるべき世では、たいへんな悪い状態から、この世で苦しむことで、救われる、ということでした。しかし、聖書が告げる審判は、それぞれの人々に起こる、最後の啓示としての恐ろしい天の法廷ではないのです。

審判について語ると、イエス様はふたつのクラスの人々を見ていました。救われる人と失われる人です。彼のたとえでは、羊と山羊、賢い少女とおろかな少女、善いしもべと悪いしもべです。彼のメッセージははっきりしています。審判は現在であって、男も女も今、決断しなければなりません。神様に従うか、神様に逆らうか。わたしたち自身が、時の終わりまで自分自身の審判者です。わたしたちはすでにやってきたことによって、自分を審きます。これはわたしたちの本当の審判者がイエス様であることに気づくまでは、つらい思考です。イエス様は「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4・15)と言われている方だからです。

Q1.新約聖書は来世について、どのようにとらえていますか?

Q2.「わたしたちクリスチャンの体のよみがえりについての信仰の根拠は、イエス様の復活によっている」と著者は言いますが、どのように関係しているのでしょうか?

Q3.聖書に訴えて、「世の終わり」について強調しているひとたちのことを、著者はどのように評価していますか?

Q4.「世の終わり」について、わたしたちはどのような心構えでいたらいいのでしょうか?

Q5.「審判は現在である」とはどういうことでしょうか。著者は、本当の審判者がイエス様であることに気づくと、どうだと言いたいのでしょうか?

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第23回のふりかえり

Q1.について
アダムとエバが善悪の知識の木の果実を食べたこと、人々がバベルの塔を建てたこと、などがすぐに想像できると思います。テキストから「金持ちとラザロ」「愚かな金持ち」などを挙げてくださった方もありました。また、現代社会では、自然破壊、遺伝子組み替えなどの問題が代表的なものとして挙げられていました。

Q2.について
所有者あるいは地主として描かれている神様は、雇い人のわたしたち人類に、財産を預けておられる、ということになります。わたしたち雇い人は、所有者である神様から、それを返すように要求されるまで、管理することが務めである、ということでしょう。神様の財産を正しく管理することがスチュワードシップということになります。

Q3.について
わたしたちに、神様は豊かな贈り物をして、愛を示してくださっています。それに対するわたしたちの応答は、すでに神様に属しているものをささげる感謝のかたちでなければならない。わたしたちは何もささげるものはないから、ただ自分たち自身、わたしたちの魂と体を神様の教会と神様の世界の中で、奉仕にささげることだけだ、と著者は言っています。

Q4.について
そうではなくて、実際は、イエス様は富と財産について語っているのです。記録された彼の6分の1の言葉、3分の1のたとえ話が、富や財産について、しかもたいへん良い意味で使われています。

Q5.について
先日、ある本を読んでいたら、ルカによる福音書21章の最初に出てくる「やもめの献金」について解説していました。

『イエスの鋭い目は、ものの表面を越えて、内実をごらんになります。このやもめは、今、自分の全部を捧げたのです。イエスの評価は、一般の評価と違って、「出した額の多寡によってではなく、残っている額の評価によってきまります」。「惜し気もなく与える人の気前の良さは結構でしょう。しかし、その人びとになお与えるべき多くのものが残っているならば、神の御前において、その価値は、自分自身にほとんど何も残さない人の、わずかな贈り物の価値よりも小さいのであります」。この真理は、ただ金銭にだけの真理ではありません。わたしたちの労働・時間・仕事などすべてに当てはまるでしょう。わたしたちに何が残っているか、そのことこそ大切なことです。つまり残らない、無になる、それはただ空しくなって、神により頼むことにつながるからです。わたしたちが無になる時、神は無限大になって、惜しみなく与えてくださる神となるでしょう。反対にわたしが大きいと、神は小さいのです。あの十字架の神は、すべてを与えつくす神でありました。御自身の御子をも惜しまずに与える神は、どうしてそれそれ以外のものを惜しみたもうでしょうか(ローマ8・32)。』(蓮見和男著  聖書の使信 私訳・注釈・説教)

いささか"精神的"な話になってしまいました。しかし、額や割合ではなく、「残り」という発想に驚きました。

通信教育を終えて

これで、24回シリーズの通信教育「アングリカン」配布を終了します。

今回の設問については、コメントする機会がありませんが、熱心な皆様には必要ないでしょう。

聖公会の神学者ジョン・マッコーリーは、著書「神の民の信仰」で次のように言っています。

『長い間教会は聖職者たちによって支配され、一般信徒はほとんど二流の成員とみなされてきた。この事態が今変わりつつある。近年、礼拝式を改めるに当たって、聖職者と共に一般信徒も、教会の礼拝で明確な積極的役割を確かに持つようにと注意を払ってきた。これは広い意味での「共に式を執行すること」である。教会の管理の改革においても同様に、今までよりも大きな発言権が一般信徒に与えられた。これはやはり広い意味での「共に管理すること」の原理である。しかしこれらの改革が意義深いものとなるのを望むならば、教会の教理の展開にも一般信徒が発言権を持たなければならない。もし新語を造ってよいならば"cotheologizing"(共に神学すること)と言うべきものが存在しなければならない。』

教会で、信徒が聖職と共に、意味のある"神学論争"を展開することを期待しています。
ご購読ありがとうございました。

2001年11月28日
担当者 司祭 小林史明


アングリカン