第24章 スチュワードシップ
「もし、わたしたちがクリスチャンを作ることと、キリスト教的な社会秩序を作ることのどちらを選ぶか、ということになったら、わたしたちは前者を選ばなければならない。しかし、これらは対立する事柄ではない。キリストの霊が働いている人間の労働や犠牲なしに、よりよいキリスト教的社会秩序を形成することはできないだろう。発展に第一に必要なものは、クリスチャンたちが、彼らの生活している場所で市民として、政治的にも社会的にも、経済組織としても、完全に責任を持って生きることである。」(カンタベリー大主教ウィリアム・テンプル)
わたしたちがクリスチャンのスチュワードシップ(管理の仕事)を教会の資金と同じように扱うなら、それは冒涜と言われてもしかたがないくらい間違ったことです。わたしたちの神様や被造物に対するスチュワードシップについての聖書の教えは、人生の鍵となるべきものであって、この惑星(地球)における生活の青写真です。ところが、わたしたちはその言葉と概念を陳腐なものにしてしまいました。現代のクリスチャンにとっては、スチュワードシップは、献金袋に入れる封筒やお金を意味するにすぎなくなりました。わたしたちに必要な、どんなものを失ったのか、理解するために、もう一度聖書に戻ってみましょう。

聖書は、いくつかのたいへん基本的な前提で始まっています。それによると、神様は被造物の主人であり、すべてのものの創造者、維持者です。現在存在するものも、ずっと未来のものも、すべては神様に属します。

聖書によると、人類は、神様との特別な関係のうちに造られ、生かされている、と言います。神様は、創造の秩序の所有者であることを分かち合うために、わたしたちを選ばれました。

聖書によると、はじめの時から、人類はこの関係を不快に思いながら生きてきました。私たちは、いつも自然の秩序に逆らう方を選び、神様ではなくわたしたちが、被造物の所有者であり、主人である、と主張してきました。聖書によると、それがわたしたちの永遠の課題であり、わたしたちの罪のすべての根源なのです。

聖書は、神様と神様に対するわたしたちの関係を、たくさんの絵やイメージを使って例証してきました。しかし、その中でも、もっとも不朽の、強い感銘を与えるもののひとつは、「スチュワード」(管理すること)ということです。

スチュワードシップという単語は、聖書の中でちょうど30回出てきますが、スチュワードシップの原理は、旧約の教えでも、イエス様の教えでも、どちらでも基礎になっています。

イエス様は、2つのたとえ話のなかで、この言葉を使いました。「善い僕と悪い僕」(ルカ12・42〜48)、「不正な管理人」(ルカ16・1〜18)。しかし、スチュワードのイメージは、他のたとえでも多く出てきます。「金持ちとラザロ」(ルカ16・19〜31)、「愚かな金持ち」(ルカ12・16〜21)、「ぶどう園と農夫」(マルコ12・1〜9、マタイ21・33〜44、ルカ20・9〜19)、「取るに足りない僕」(ルカ17・7〜10)、「仲間を赦さない家来」(マタイ18・23〜35)、「二人の息子」(マタイ21・28〜35)、「タラントン」(マタイ25・14〜30、ルカ19・11〜26)、などです。

これらのたとえのほとんどすべてには、3つの共通の要素が含まれています。所有者あるいは地主、雇い人、そして所有者の財産です。所有者は財産の所有権を保持している間ずっと、それを雇い人に預けて、雇い人は、所有者がそれを返すように要求するまで、財産を監督し、管理する責任があります。たとえ話の重要なな点は、雇い人には、最終的には主人の財産を監督、管理すること(スチュワードシップ)の責任があるということです。

「それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」(ルカ12・16〜20)

覚えておかなければならない大切なことは、すべてのものは結局神様に属しているということ。すべてのものとすべての人は、神様に属しているのです。わたしたちはこの世に何も持って来なかったし、わたしたちはみんな、愚かな金持ちのように、この世から何も持ち出せないのです。わたしたちは自分たちの生活を、まるで救いがそれにかかっているかのように、ものや関係を増やすことに費やしています。それらのスチュワードシップのたとえ話は、2000年前と同じように今日でも真実です。

真の幸福と真の自由は、ダビデ王によって確認され、主張されています。「偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものは、あなたのもの」(歴上29・11)。ですから神様がわたしたちに与えなかったものは何もありません。わたしたちはそれを得るために何も努力していません。わたしたちの賜物である、財産、家庭、友人、生命そのもの、それらはすべて、わたしたちを愛する神様からの贈り物です。

この豊かな、満ち溢れる神様の配慮に対するわたしたちの応答は、すでに神様に属しているものをささげる感謝のかたちでなければなりません。わたしたちには、ほかに何もささげるものはありません。わたしたちにできることは、ただ自分たち自身、わたしたちの魂と体を神様の教会と神様の世界の中で、奉仕にささげることだけです。

金で何を得ましたか?

あなたは、それが好きか嫌いか知りませんが、お金は重要です。資本主義社会においては、お金が身分を決めます。お金は成功を示し、それは人間の価値をはかるのに使われます。わたしたちの政府は、彼らがわたしたちのポケットにいくらお金を約束するかによって選ばれ、結婚の破綻の75%は、それが要因だと言われています。わたしたちのほとんどは、お金がもっと必要だし、わたしたちのほとんどは、もし誠実ならば、わたしたちが本当にやりたいことのためにいくらくらいお金が必要か、知っています。わたしたちの社会では、お金は重要です。お金のことが語られているなら、あなたはその話し手がだれでも、わき目もふらずに注目するでしょう。

イエス様は、このことをご存知でした。多くの人々は、イエス様はほとんど"精神的"なこと、たとえば愛、平和、ゆるしについてばかり語っていると信じているでしょう。しかし、福音書で調べてみると、全くそうではないことがわかります。実際は、イエス様は富と財産について語っているのです。記録された彼の6分の1の言葉、3分の1のたとえ話は、このことに関して、しかもたいへん良い意味で書かれています。

イエス様は、わたしたちが古来物質的な財産を愛していることを誰よりもよくご存知でした。金持ちの青年が、イエス様の所へ来て、永遠の命を受け継ぐには、何をしなければならないか尋ねた時、イエス様は、祈れ、とも、聖書を学べ、とも言いませんでした。彼は、その若者の根本的な霊的問題は、彼の財産への固執にあることがおわかりでした。イエス様は彼に、財産を売り、その金を貧しい人に施すように言いました。この物語は、少なくとも資本主義世界のクリスチャンには、新約の中で最も不快なもののひとつになっています。

イエス様は物質的富や財産に反対しているのではありませんでした。事実、ファリサイ人を批判して注目させるために、十分生活を楽しんでいたことが記録されています。イエス様が述べていることは、人間というものは、与え主よりも与えられた物の方を信頼する傾向がある、ということです。

それでは、わたしたちは、この古来の物への固執という熱狂をどのように克服するのでしょうか。与えることを学ぶことによって、するのです。そして、わたしたちの社会のクリスチャンは、ふつうお金を与えることによって学ぶのです。

「クリスチャンのスチュワードシップは、お金を増やす教会の道ではなく、男女を育てる神の道です。」

クリスチャンの施し

簡単に言って、聖書はクリスチャンの施しについて、2つのことを言っています。それによると、先ずわたしたちの施しの程度は、わたしたちの収入の程度と関連すべきである、ということです。だから、わたしたちがどれくらい祝福されたかに従って、喜んで施すべきだ、ということです。そしてもうひとつは、わたしたちの施しは、神様に対して、慎重に、祈りを込めて考え、収入からバランスをとって、教会や支援する慈善団体を選んで施すことです。

多くのクリスチャンは、10分の1献金を当然であり、クリスチャンの基準と思っています。彼らは10分の1を旧約の基準と主張します。だからクリスチャンはとてもそれ以下にはできないのです。しかし、聖書の教えは、彼らがわたしたちに信じさせているほど、単純なものではありません。

旧約時代には、すべての農作物の10分の1を土地の所有者であり、実りを与えてくださった神様にささげるのは、正しいことでした。神殿と祭司職を維持し、未亡人とみなしごに与えるためでした。しかし、学者たちは、旧約聖書の10分の1の実践が、10%に必ずしも結びついていないことを示してきました。農作物の計算の仕方によると、どちらかと言うと、全収入の20%乃至は23%になったようです。そして職人、商人、漁師、パレスチナの外のユダヤ人は全く10分の1ではなかったようです。

新約聖書も似たようなもので、はっきりしません。どこにも、クリスチャンが、いくら与えるべきか、という特定の教育は含まれていません。10分の1は、新約に3回だけ述べられています。マタイ23・23、ルカ18・12、ヘブライ7・1〜10.そして各場面は、議論の中心点からは、ずれているところです。

新約の時代、12の規定された税金と奉献がありました。ローマの税金を加えると、全体では厳密な納税額は収入の40%近くなりました。ですから、敬虔なユダヤ人が正確に、10%の施しをしていた、というのは歴史的に正しくはないのです。ですから、イエス様は、敬虔なユダヤ人として10%施したとも言えないし、クリスチャンは、同じようにしなければならない、とも言えないのです。

Q1.聖書は、神様が被造物の主人であると言っていますが、人類は自分たちこそがその主人であると主張してきた、と著者は言います。そんな例を、聖書から、また現代社会の中から、挙げてみてください。

Q2.スチュワードシップという言葉は、聖書に30回出てくるそうですが、スチュワード(管理する)とは、具体的にどういうことですか?

Q3.すべてのものは神様に属している、と聖書は語っていますが、わたしたちにできることは何だと著者は言っていますか?

Q4.イエス様の教えは、ほとんど「精神的なこと」である、という主張は正しいですか?

Q5.10分の1献金について、あなたはどう考えますか?

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第22回のふりかえり

Q1.について
わたしたちは神様に属している、ということを聖書は語ります。もっと具体的に言うと、神様はその民と契約を結ばれたのです。神様は、民を奴隷から自由へと導く約束をし、民は神様の戒めを守る約束をしたのです。朝の礼拝の平安のための祈りで、「完全な自由は主に仕えることにあります。」と祈りますが、そのことを指しているのでしょう。

Q2.について
テキストでは、「彼は前に預言者たちがやっていたことをしました。彼は、イスラエルの民を、神様と隣人への愛の契約に戻そうとしたのです。」となっています。

Q3.について
わたしが難民で、子どもが餓死するか、生かすために盗むか、という場面になった場合、「なんじ盗むなかれ」という規則が脇に置かれてもしかたがないのではないか、と言っています。また、アドルフ・ヒトラーのような独裁者の権威に従うように命令された場合、彼の暗殺計画に協力してほしい、と頼まれた場合に、考えなければならない問題でしょう。

Q4.について
ボンヘッファーというドイツの神学者は、ヒトラーに対する地下抵抗運動で、実際暗殺計画に加わり、逮捕されて、殺されたことは、あまりにも有名です。

Q5.アメリカ聖公会主教会の声明を紹介します。
和解を実現することについて
一アメリカ聖公会主教会の声明一
2001年9月26日

アメリカ聖公会の主教である私たちは、9月11日の破壊的な出来事の影を負いながら参集いたしました。合衆国に住む私たちは本物の宗教のふりをしたイデオロギーが破壊と先手必勝の攻撃を加える国ぐにの仲間に加わろうとしております。この苦しみを通して、私たちはテロリズムの邪(よこし)まな力が継続的な脅威となり現実となっている世界のある場所に住む人びとと、新たに連帯するようになりました。

私たちは友人や愛する人びとをなくした方がたにお悔やみを申し上げますと共に、まことに悲劇的な死をとげられた方がたのためにお祈り申し上げます。私たちは合衆国大統領、その助言者および議会を構成する方がたが議論するに際して知恵と慎みが与えられ、忍耐を行動で示すことができるよう祈ります。私たちは軍のチャプレンや軍務についている人びとと、不安で不確実な時を過ごしているその家族のために祈ります。私たちはまた「私たちの敵、また私たちを攻撃しようとする人びと、また私たちが傷つけ、攻撃してきた全ての人びとのために」祈ります(アメリカ聖公会祈祷書、391頁)。

同時に私たちは救助活動にあたっている人びとやボランティア、また私たちの国の精神を最も適切に証言している寛大と無私を示して勇猛に努めている全ての人びとのゆえに感謝いたします。私たちはまたモスリムの兄弟姉妹や恐れと非難のこのときにあって弱者とされてしまった人びとと交わりを持とうとする全ての人びとのゆえに感謝いたします。

私たちはまた、苦しみと死が決して終わりではなく全てのものが癒され和解されるはずの未来に至る道でもあることの二つの意味を示す、十字架の影のもとに集まっています。キリストを通して「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロサイ1:20)。

この平和形成の根源的な行為は、人類と全被造物との完全な繁栄のために、正しさに対する神の熱烈な求めに従って、全てのものを正しく整えるということにほかなりません。

平和はすでにキリストによって達成されたのですが、私たち相互と私たちを取り巻く世界との関係の中ではまだ実現されておりません。私たちは地球村の一員として、また、世界の全聖公会の一員として、文化、宗教の違いや違った世界観にかかわらず、互いの重荷を負うよう召されています。私たちの国のような諸国の豊かさは、午前中だけで毎日6千人もの子供たちが死ぬ原因となっている破壊的な貧困によって破滅の淵にある他の諸国と鋭い対照を示しています。

私たちは自己検証と悔い改めを求められています。つまり、全てのものを結び付け、癒し、新しいかつ全体的なものとすることを求めることができるために、私たちが心を開き神の思いやりが働く余地をつくる方向に進んで自己変革するよう求められているのです。私たちが洗礼を受けることによって参与するようになった神のご計画は、抽象的にではなく、飢える人に糧をそしてはだかの人に衣服をという具体的な形で神の正しさを示すことができるように、私たちの日常の生活の形を整え直し変革するという継続的な働きです。教会の使命はこの世界の中で神の働きに参与することにあります。私たちはその使命を主張するものです。

「私はあなたの前に生と死を置きました。あなたとあなたの子孫とが生きるために生を選びなさい」とモーセはイスラエルの子らに告げました。私たちは生を選びます。そして、ただちに私たち自身を個人的にも信仰の共同体としても、私たちの決意に内実を与え、私たちの希望を体現させるような明確な手段を展開できるように、自分たちを整えるものです。ただ私たちは、皆様も平和の器となることに忠実に、またそれを願っておられることを信頼申し上げ、皆様とともにこのように努める次第です。

ですから、ご一緒に和解のために働こうではありませんか。私たちに与えられた賜物を神の継続する和解と癒しと全てを新たにする働きの実現のために捧げようではありませんか。そのようにすることを私たちはお誓い申しまた私たちの教会も行動を同じくするよう呼びかけるものです。

私たち全てがそのために召されている課題の大きさを承知の上で、私たちは冷静に、しかし確信をもって、また希望に基づいて前進するのです。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)。

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ15:13)。

終わりに

第22回のテキスト「クリスチャンの行動」は、最初に載っている、ジョージ・ベル主教の言葉から、現在のわたしたちが直面している問題を言い当てています。

翻訳の問題で、長崎のバスク司祭と電話で話していたら、「このベル主教は、第2次世界大戦中の主教で、このような発言をしなかったら、きっとカンタベリー大主教に選ばれていたはずの人。」とのことでした。

ベル主教といい、現在のアメリカ聖公会総裁主教のグリスワルド主教といい、この世の権力者とは別の、信仰の立場を、堂々と述べる生き様に驚かされています。

10月10日付の日本聖公会管区事務所だよりには、アメリカ聖公会総裁主教の聖パウロ大聖堂(ヴァーモント州バーリントン)における説教「私たちの傷をいやすために」
― 神との一致、お互いの一致の回復に向けて ―
という、これも感動的な説教が載せられています。

今日ほど、自分たちの信仰が問われていることもないでしょう。わたしたち自身も、この問題について、教会で話し合う必要があるのではないでしょうか。

わたし自身は、ローマの信徒への手紙12章19〜21節が、具体的な方法として示されているように思います。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

「燃える炭火を彼の頭に積む」というのは、敵意を抱いている相手から親切にされて、憎しみを抱いていることが恥ずかしくて、顔が赤くなることの表現です。

来月は、通信教育テキストの最終回になります。「次には何が起こるの?」という、終末と審判についての問題です。

2001年11月1日(諸聖徒日)
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン