第23章 クリスチャンの行動
「市民が好戦的かどうかということを全く考慮もせず、都市をただ都市であるということだけで空爆するのは、間違った行動である。それがナチスであろうと、我々自身であろうと。」(ジョージ・ベル主教)

もし、クリスチャンの祈りが、神様や私たちの隣人たちに愛を込めてささげられるのであれば、クリスチャンの行動も、それと同様の生き方のはずです。

「わたしたちは、自分自身のことにだけ責任をとればいい。自分のすることについては、自由であっていい。」と主張する人がいます。しかし、聖書はそのようには語っていません。聖書が言っていることは、わたしたちが神様に属しているということです。なぜなら、わたしたちはひとつの契約社会に属していて、真の自由は、契約を守り、神様の戒めに従うことにあるからです。第2回の学びの中の、第1の啓示のドラマを思い出してください。主なる神様は、民の共同体を選び、彼らと愛の契約に入られました。神様は、民を奴隷から自由へと導く約束をし、民は神様の戒めを守る約束をしました。

戒め

十戒のことを、それは古くて時代遅れの、今日ではほとんど意義のないきまりである、と撥ね付けることは、安易すぎます。イエス様は、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と問われた時、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と答えられました(マルコ12・29〜31)。彼の答えには、何も独自なものはありませんでした。彼は、戒めの本質的精神が、神と隣人への愛であることを指摘したのです。そして、注目に値することは、その質問したユダヤ人は、イエス様の答えを誉めているということです。

イエス様は十戒を廃止したのではありません。むしろ、彼の前に預言者たちがやっていたことをしました。彼は、イスラエルの民を、神様と隣人への愛の契約に戻そうとしたのです。

この愛の命令は、クリスチャンの行動の基礎です。聖パウロは、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマ13・8〜10)と言っています。

イエス様はわたしたちを、愛の共同体の中で、彼の兄弟姉妹として共に生きるように、呼びかけておられるのです。共同体は、新しい生活をするように、全体が新しい道で行動するように、と呼ばれていて、「自分のことだけやる」のとはまったくかけはなれた、わたしたちの主とお互いのために生きる共同体です。

しかし、わたしたちは、それをどのように行動に移すのでしょうか。わたしたちの多くは、道徳的な神学者ではありませんし、毎日、愛の命令を行う状況の中で過ごすほど、時間を持っていません。そんな規則や律法がすぐに役立つ場所にはいないのです。

愛と律法

規則(rules)と律法(laws)は、わたしたちの日々の行動を秩序づけるために用いるものとして、共通に認められている規律(disciplines)です。

誠実という規律は、そのような規則のひとつです。誠実さの規律が、一般的に受け入れられないようであれば、社会での生活は、成り立ちません。「盗むな」「むさぼるな」「偽証するな」などは、すべて誠実さの規律からの反映です。それらはすべて重要な規則であって、過去に蓄積された知識によって、簡単に脇へ置いてしまうようなものではなく、正しい理由なしに、それを取り除くことは、愚かなことです。

ほとんどの場合、愛するという命令は、わたしたちの社会の規則や律法と対立することはありません。しかし、おぼえておかなければならないことは、規則によって、愛は抑えられるものではないし、愛の命令に従うために、特定の規則が、脇に置かれることもある、ということです。

「なんじ盗むなかれ」という規則には、簡単に賛成できるでしょう。しかし、もしわたしが難民であって、私の子どもの餓死か、彼を生かすために盗むかの選択を迫られる時はどうでしょう。「わたしたちは権威に従わなければならない。」と言うのは簡単なことです。しかし、その人物がアドルフ・ヒトラーならどうでしょう。彼の暗殺の組織を助ける機会に出会ったらどうでしょう。ドイツのクリスチャンたちは、そのジレンマに直面したのです。愛の命令に、わたしたちは、いつ、どのように決断して行くのでしょうか。

原則とガイドライン(指針)

偉大な聖公会の大主教ウィリアム・テンプルは、わたしたちがキリスト教の道徳的決断をする時に心がけておかなければならない、たくさんの原則やガイドラインを示してきました。

1.愛は人間の生命の価値と尊厳を肯定します。

イエス様は言われた。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(マタイ10・30)。

わたしたちは愛するように創造されました。物は使われるように創造されました。しかし、しばしばわたしたちは違った使い方をしてしまいます。

2.愛は人間共同体を尊重します。

パウロは言いました。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(Tコリント12・26)。

わたしたちは社会の中で生活するように造られました。そして、だれも自分自身の優位さを単独で行使することは認められていません。

3.愛は正義を要求します。

イエス様は言われた。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)

正義は、権力の中心からもっとも遠い者に対して、もっとも偉大なものを生み出します。わたしたちは、貧しい者や弱い者を支持する傾向があります。

4.愛は、奉仕の義務を理解します。

イエスは言われた。「ところで、主であり師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ13・14)

アルバート・シュバイツァーは、「あなたがたのなかで、どのように仕えるか、その方法を見つけた者だけが、本当に幸せである。」と言ったとき、彼はこの原則の本質を示しました。

5.愛は、犠牲の力を理解します。

イエスは、言われました。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10・38)

真の前進は、力によって達成されません。犠牲によってです。ウィリアム・テンプルは言いました。「ストライキという手段が、雇い主や公共に対して真に迷惑をかけるという力の行使によってではなく、ストライカーの忍耐という犠牲によって、同情が呼び起こされ、そして彼らの忍耐に注目がさらにあつまり、正義が理解されてゆくような勝利であるなら、私は強く肯定する。」

わたしたちは、他の原則も系統立てることができるかもしれません。しかし、クリスチャンの行動の基本的原則は、常に同じです。わたしたちは愛の命令によって、行動しなければなりません。クリスチャンの行動は、行動による愛です。袖をまくりあげた愛です。

「彼らは、特定の日、太陽の昇る前に会う習慣がある。彼らはキリストに対し、神であるかのように賛美を歌い、神聖な誓いによって結び合い、どんな邪悪な行ないもせず、すべてのペテン、盗み、姦淫を自制する。彼らは約束を破るようなことはなく、人間関係のだいじな信頼を否定しない。その後、彼らは別れるのが、また会って、食物を分かち合う。食べ物は一般的なありきたりの食物である。」 (プリニウス 紀元112年)

Q1.「わたしたちは自分自身のことにだけ責任を負えば、自分は何をするのも自由だ。」という考えに対して、聖書はどのように反論している、と著者は言っていますか?

Q2.イエス様は十戒を廃止しようとして来られたのではない、ということですが、イエス様は十戒を通して、何を目指されたのですか?

Q3.愛の命令に従うために、特定の規則が脇に置かれる場合として、著者は何を挙げていますか?

Q4.あなたは、Q3.について、どのような例を挙げられますか?

Q5.あなたが、ブッシュ大統領だったら、今回の同時多発テロに対して、どのような声明を出し、どのような行動をしますか?

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第22回のふりかえり

Q1.について。
この文章を読んでいると、羊飼いであるイエス様(あるいは神様)のもとで、羊である信徒の世話のために働く、聖職者を頭に描いてしまいます。しかし、羊たちは、信徒ではなく人類全体、あるいは神様の創造されたものすべて、と考え、クリスチャンはみんな牧羊犬である、という意識の改革が必要でしょう。現代では、聖職とともに、教会活動への積極的参加が望まれています。

先日長崎で信徒研修会をしましたが、研修会の前に、「洗礼・堅信準備の学び」というテーマに対して「それは牧師の仕事じゃないの。」という声が聞こえてきました。

洗礼・堅信準備の中心となる教会問答(以前は公会問答と言っていた)のルブリックに顕著にそれが表れています。

文語祈祷書では、公会問答を教えるのは、聖職の仕事になっていました。そして、堅信式を受けるためだけに存在しているような書き方でした。

ところが、新しい教会問答の前文と思われるルブリックには、
「教会問答は、救いにかかわる神のみ業とみ言葉の要点を掲げたものである。洗礼、堅信を志願する者、また信徒は皆これをよく身に付け、またこれを人びとに伝え証しすることが大切である。」
と、みんなが伝道にこれを役立てるように勧めていますし、あとがきのルブリックは、「聖職と信徒、殊に教父母は」という書き出しではじまっています。教える主体は、私たちクリスチャンみんななのです。

現在教育部が目指していることは、信徒が教役者と、「ともに礼拝を執行し」「ともに教会を運営し」「ともに神学の学びを行う(信仰を意識化する)」ということです。

牧羊犬の姿に、クリスチャン全員をあてはめていただきたいと思います。

このように書いていたら「牧羊犬はイエス様のことではないか。」という回答を受けて、「なるほどなあ。クリスチャンの理想であるイエス様かもしれない。」と気づかされました。みなさん、どう思いますか?

Q2.について
他の宗教の祈りだから、他の神様に祈っているんだ、と決め付けるのは排斥につながるのでよくない、と著者は考えているのでしょう。しかし、簡単に「同じ神様を、別の方法で祈っている。」と言うのは、その道を歩んだこともないのに、おこがましい発言になるでしょう。

他宗教との対話が言われていますが、それは偏見をなくすために大切なことでしょう。

キリスト教会間の対話も進んで、カトリックと聖公会は、表現がちがっていたけど、実は同じ聖餐に対する考えだったのだ、ということが専門の学者の間では合意ができました。

Q3.について
この部分については、元のテキストに聖書の箇所が書かれていなかったので、問題にしてみました。

回答くださった人たちの箇所を列挙してみます。

マタイ5章〜7章「山上の説教」
マタイ7・21
マタイ25・40
マルコ12・28〜34
マルコ9・38〜41

皆さんは、いかがだったでしょうか。

私は、マタイ23・3あたりの、言うだけで、実行しない律法学者たちやファリサイ派の人々を批判された言葉などを連想しました。

言葉と行動、祈りと行動の一致が必要ということではないか、と思いました。

後半の他者への奉仕の中に神様への愛がある、というのは、マタイ25・31以下など有名な所ですね。

Q4.について
「彼らは聖書を学び、時のしるしに気づき、人間が神様の法を無視することを選んだ時、人間の行動の、避けることのできない当然の結果を、はっきり示したのです。」と、テキストでは示しています。

もちろんこの洞察は、神様に祈って、「神様の声を聴く」ということになるし、それを人びとに伝える役割があります。預言者のエゼキエルは、この預言者の務めを「見張り」として理解しました。エゼキエル書3章16〜21節を一度読んでみてください。

日本基督教団は、戦争責任告白をする際、ここにでてくる「見張り」の使命を、第二次世界大戦中、ないがしろにした、と言いました。

たとえ戦争反対を唱えたところで、戦争は止められなかったでしょうが、神様からの警告を伝えなかったら、その責めを負うことになる、という理解が、このエゼキエル書から学べるのです。

Q5.について
みなさんは、どんな祈り方をしておられますか。私は、このところ詩編を読むのが大変助けになっています。

大分聖公会では、昨年の9月下旬から、一年になりますが、毎週聖餐式の旧約と使徒書の間に、詩編を唱えています。司祭が二人いるので、このところ、主日礼拝では、朝の礼拝をすることがありません。聖餐式の旧約日課には詩編がありませんので、なじみのうすいものになっていました。ところが、聖餐式で旧約が読まれた後で、毎週違う詩編を、全員で読みますと、祈りが身近なものに感じられて、一人のときも、読みたくなるんです。

祈りにはいろんな方法があるので、実際いろいろ実行してみなさい、とテキストで著者は言っています。

どうぞ、さまざまな方法を試みてください。

次回は、「スチュワードシップ」について学びます。

2001年10月1日
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン