第13章 英国における教会
『私は神の恵みが現代の教会の中でも働いていることのしるしが存在することを信じている。神は、壁の内側に閉じ込められているような存在ではなく、またどんな教会の所有物でもなく、またクリスチャンのための存在でもないと信ずる。彼は神である。これらのものよりもはるかに大きい存在なのである。 しかし、私の近視眼的な見解では、しばしば聖公会のことを考えてしまう。私はある司祭のことを頭に描くのだが、彼は見世物とか人騒がせのためではなくと、純粋に、癒しの奇跡を行なっていた。(もう故人である。)私は私たち信仰共同体による祈りの証を頭に描く。またウォールシンガムの聖母マリア修道院の聖堂を頭に描く。私自身に関わった何人かの人の生活、私よりうんと良いクリスチャンの生活をしていたり、してきた人々のことである。英国聖公会が、彼らにとって十分に良いものなら、私のような罪人にも十分に良いものであるに決まっている。』
(A・N・ウィルソン)
私は、最初、教会がどのようにしてブリテン島(イギリス)に来たのか知りません。使徒聖フィリポか、アリマタヤのヨセフが英国教会の創立者だという伝説があります。また、復活後の40日間に、イエスが英国を訪れたという伝説もあります。それよりも、ローマ軍のクリスチャン兵が、その信仰を「冷たく野蛮な国」の住民にもたらした、ということの方が、確かなことのようです。
西暦208年には、ブリテン島には教会があって、314年には3人の主教を南フランスのアルルの教会会議に送っています。
不幸なことに、この初期のブリテン島の教会の記録は、次の200年間にほとんどが失われています。ローマ軍がブリテン島から退くと、ピクト族、スコット族、サクソン族が侵入して、ブリテン島の人々は、国の南や西の山に逃げて、彼らの教会も、一緒に去ってゆきました。ブリテン島のキリスト教は、そのような避難した土地で育ち続けました。それが重要なウェールズとアイルランドのケルト教会に発展し、のちにその宣教師の努力が、イングランドの回心のための原動力になっていきました。

コロンバ、オーガスチン、そしてエイダン

563年、コロンバというアイルランドのケルト教会の修道士は、アイルランドからアイオーナの離島に行って、12人の仲間と修道院を作りました。そしてアイオーナからブリテン島本土の部族たちに宣教を始めました。この宣教は、大変な成功をおさめ、コロンバの死んだ597年までには、アイオーナ島はすでに宗教と政治に影響を与える重要な中心地となっていました。
同じ597年に、40人の修道士が学問を携えて、教皇であるローマの司教グレゴリーから派遣されました。英国の人々を改宗させるためです。オーガスチンというグループの指導者は、決して英雄ではありませんでした。彼は凶暴なブリトン人(英国の先住民)についての恐ろしい話を聞いて、彼の使命を捨ててローマへ帰りました。しかし、グレゴリーの意志は強固でした。そこで、オーガスチンと、おびえた彼の仲間たちは、ようやくイングランド(英国の南側)に着きました。そこで、彼らがほっとしたことには、彼らは英雄として迎えられたのです。王エセルバートは異教徒でしたが、彼の妻はクリスチャンで、カンタベリーの古い聖マルチン教会を、すでに復元させていました。それに続く王エセルバートの回心は、南イングランドにおけるオーガスチンの宣教の成功を、確かなものとしたのでした。しかしながら、彼の、北の異教の部族への宣教は、大して成功はしませんでした。北の回心は、エイダンというもうひとりのケルトの修道士の働きによります。
アイオーナ島のアイルランドの修道士たちによって教育を受けてきた、オズワルドというクリスチャンが、634年にノーサンブリアの王になった時、彼は、家臣を改宗させようと、当然のこととしてアイオーナの修道士たちに助けを頼みました。ある修道士がそれに挑戦しましたが、宣教に、"希望がない"、と諦めました。そこで、エイダンがその仕事を志願したのです。彼はリンダスファーンの孤島に修道院を建てて、そこから北の野蛮な部族に福音を告げる、優れた宣教をもたらしたのでした。

下降期の教会

数世紀間、英国の教会は栄えました。修道院が創設され、これらは活力ある宣教活動の中心となりました。しかし、中世までに、伝道の熱意は衰えはじめ、修道士たちは、彼らの生活を、贅沢と安楽なものにしはじめました。ウェストミンスター寺院(修道院)の料理人の記録から、中世の食事の資料を研究した歴史学者は、修道士たちに許可された食べ物と飲み物の総量は、1日になんと7325カロリーにもなるということです。1年間には60日におよぶ祝日があり、その日には、1ガロン(約4.5リットル)のエール(ビールの1種)が、1リットルのワインのほかにも含まれていたようです。
教会への熱意を回復させる人々の試みはありました。13世紀の修道士の宣教 ―これはアッシジのフランシスに追従する者たちですが、彼らがまた、倦怠感に屈服してしまうまでの間に、ある程度の成功をおさめました。そして、15世紀に、ジョン・ウィクリフというオックスフォード大学教授が、修道士の富と怠惰を批判する「彼らの大きなおなかと、赤くふくらんだ顎」という説教をしました。少なくとも聖職者には不評だったのですが、これへの追従者たちがいました。修道士たちの不面目は、新しいものではありませんでした。何世紀にもわたって、聖職者たちは、わいせつな売春宿の歌の標的でした。しかし、今や、新しいキリストの体(教会)の病気についての意識がはっきりしてきました。活版印刷の発明によって、改革がもたらされました。第一に、本は自由に量産されるので、1450年から1500年の間に、100を超える聖書の版が出版されました。全ヨーロッパの学者たちは、教会の躓きを追求し始め、教会改革に世論を喚起するようになりました。

『教会の成長は、教会を"有頂天"にさせた。教会は自分自身の重要さに悩まされてきた。主教たちは、神によって司牧するように召されたが、特権のある高位聖職者か君主のようになった。司祭たちは神によって、仕えるものとして召されたが、人々から仕えられることを期待した。修道院は、神によって学びと神聖さのために興されたが、怠惰と富によって、退廃した共同体になった。教区の教会は、神の下にあり、すべての村や町の中心になるように建てられたのだが、腐敗と怠慢の場所となった。それは欲深く、留守ばかりしている牧師たちによってである。』
キャノン・アルバート・イートン

16世紀の改革

教会の改革の火花が散った出来事の原因は、ローマのサン・ピエトロ寺院の建物の建築財源のための免罪符の販売です。免罪符は、平凡な人々が、彼らの信仰的な価値に、過去の聖人たちの非凡な価値を加えて、認められることを期待してのものですが、これは一種の天国の保険のような企てでした。
マルチン・ルターは、ドイツ人修道士で、ウィッテンベルグ大学の聖書学の教授でしたが、免罪符について異議を唱えました。彼は聖書を学ぶことを通して、彼自身、神の平安を見出しました。彼は、「我々自身には、神の愛を手に入れる方法は何もない」と悟りました。「神の愛は、神がありのままの我々を愛することによって、無償で与えられるものである」と信じていました。免罪符の背後にある考えは、「我々には、神の愛を買うことができる」ということですから、ルターには、それが腹立たしいことだったのです。そこで、1517年10月31日、諸聖徒日の前日、ウィッテンベルグ城の教会の扉に、ルターは免罪符に関する95箇条の提題を書いた張り紙をくぎ付けして、公開討論において、これらの提題を擁護する用意のあることを宣言しました。
ルターには、改革を始める意図はありませんでした。普通なら、このような相対的に重要でない出来事は、目立たないまま見過ごされるはずでした。ところが、教会には改革の機が熟していました。そして自称改革者たちが、ルターの旗のもとに群がったのです。1520年までに彼の名前は西方教会に知れ渡りました。人々は彼の本やパンフレットを買い求め、彼の考えはたちまち広まったのです。
教皇は大勅書を発布して、ルターの著書のいくつかを異端として強く非難し、彼の本を信仰的に禁書にして燃やすことを要求しました。ルターは教皇の大勅書を焼くことでそれに答えます。その反抗の行為で彼は破門されました。彼は教会のサクラメントから切り離されたのです。
しかし、それは遅すぎました。1529年、ドイツの諸侯たちのグループは、ルターを支持して集まり、教会の改革を止めようとした人々に対して、抗議を述べました。私たちの使うプロテスタント(抗議する者)という言葉の起源です。彼らは新しい政治的な同盟を作りました。彼らの保護の下で、ルターはドイツの教会を改革しました。マルチン・ルターの実例は、全ヨーロッパの他の改革に引き継がれてゆきます。16世紀の半ばまでに、改革は新しい教会制度として現実のものとなりました。英国だけを例外として。

『皇帝陛下、ならびに諸侯閣下は、私に簡潔な答えを要求されます。さあ、明らかな、ごまかしのないものがここにあります。聖書の証言によって、私の誤りを立証するものでない限り、(私は、支持されてもいない教皇や教会会議の権威を信頼していません。それらがしばしば間違いをおかし、しばしば反駁し合っていることは明らかです。)私は、自分が主張してきたものは聖書で立証されたものであって、私はそれによって立っています。私の良心は、神の言葉の囚人です。私は何も撤回することはできないし、する気もありません。良心に逆らって行動することは、安全でも正直でもありません。これによって、私はここに立っています。それ以外にはできません。神よ助けてください。アーメン』マルチン・ルター 1483〜1546
Q1.英国にキリスト教をもたらしたと思われるローマ軍が去った時、キリスト教はどうなりましたか?
Q2.オーガスチンたちは、ブリトン人たちにおびえていたのに、何故英雄として迎えられたのでしょうか? その背後には、どんな活動が推測できますか?
Q3.中世の退廃的な教会に対して、『活版印刷の発明によって、改革がもたらされました。』と著者は書いています。どうしてこれが改革をもたらすことになったと思いますか?
Q4.免罪符の販売は、どうしてルターには、腹立たしいことだったのでしょうか?
Q5.現代にルターがいて、教会の活動を見ていたら、どんなところに問題を感じると思いますか?

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第12回のふりかえり

Q1.「教会」という言葉は、ギリシャ語で書かれた新約聖書では、「エクレシア」と表現されています。その意味は「呼び出された者」ということですが、それは、元々は旧約聖書の書かれているヘブライ語からの訳語であって、ヘブライ語の文字通りの意味は「呼び出されたイスラエル民族、神を礼拝するために彼らのテントから呼び出された民族」ということだ、と著者は説明しています。
呼び出した主体は「神様」であって、人間が勝手に出てきたのではない、ということと、「神を礼拝する」という目的がはっきりしていることを覚えておくことが大切、とある受講者は、説明してくださいました。
五十嵐主教がよく引用される聖書の箇所を挙げておきましょう。
『後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」』(詩編102・19)
そして、テントから呼び出すということで、私の頭に浮かぶのは、民数記2章の、臨在の幕屋を中心にして東南西北にそれぞれ3部族ずつが、部族の旗を掲げて宿営している姿です。これは約束の地を目指して旅しているイスラエルの12部族が、礼拝の中心である臨在の幕屋を取り囲んで生活していたことを示します。礼拝の時には、それぞれのテントから出て、中心の幕屋の周りに集まったのでしょう。
ただ、ここまで書くと、丹念に12部族を書き出す人がいるかもしれません。ヤコブの12人の息子の子孫が12部族を形成しているのですが、創世記35章23節からの息子のリストと、民数記2章に出てくる12部族の名は少し入れ替えがあります。レビは、祭司の部族として12部族から外れて独自の立場をとります。そして、エジプトに売られたヨセフの名も12部族からは消えています。そのかわり、この二つの空席を「エフライム」と「マナセ」が埋めています。これは、ヨセフの2人の息子の名前であって、創世記48章でヤコブは彼らを祝福しています。
Q2.テキストでは「彼は活動のはじめから、イスラエルのエクレシアを回復しようとしました。」と書いています。また、第3回のテキストの中で「彼ら(弟子たち)は古いイスラエルが成し遂げることに失敗した役割を、代わって成し遂げる新しい共同体、新しいイスラエルの核になる、とイエスは言いました。」と書いています。12部族で形成されたイスラエル共同体を意識していたことは確かでしょう。
Q3.ぶどうは、イスラエルの象徴です。モーセたちが荒れ野にいて、約束の地カナンをカレブやヨシュアたちに偵察させた時、持ち帰ったものはぶどうの房でした(民13・23)。この姿が現在のイスラエル観光局のマークになっています。
イエス様はご自分が、まことのぶどうの木であり、あなた方がその枝であると言われたのは、イスラエルから教会へとつながる一貫性を教えておられるのではないでしょうか。
木と枝は、樹液でつながっています。水やぶどうを生らせる養分を考えると、「洗礼」や「聖餐」を連想してしまいます。旧約のエクレシアを継承している現代の教会は、イエス様の制定された、このサクラメント(聖奠)で生きているということでしょう。
Q4.「教会の目的」のところで、著者は、神様の意思を示し、イエス様の働きを続けるために、私たちが呼び出されたのである、と説明しています。そして具体的には、1.説教という方法で、言葉を使ってキリストを表わし、2.言葉に出したことが現実になるために、行動し、3.礼拝によって、神様を全被造物の中心に置いて、主の制定された聖餐を守るということです。
Q5.キリストが聖であり、彼の聖霊が教会に満ちているから「教会は聖である」のであって、そこにいる人が目立って道徳的にすばらしい生活をしている、ということではない、と著者は説明しています。
しかし、キリストの仕事を継承しているわけですから、「わたしたちも主の神性にあずからせてください。」(降誕後第1主日特祷)と祈る必要があるでしょう。
来月は、英国の宗教改革を学ぶ予定です。
2001年1月2日
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン