第6章 父なる神
「神様は、その前ではすべての言葉がひるんでしまうただひとりの方である。人間の英知ではつかむことはできない。」
聖ベルナルド

「神の存在は理性にかなっている。神以上の存在は理性と相容れない。死者の復活は、理性を超えている。」
ジョン・ロック(1632〜1704)

「神様のことは言い表し得ない。神様が何であるかということよりも、神様が何でないかを言う方がやさしい。神様と比較できるものはない。あなたがもし神様のことを想像しているなら、それは神様以外の何かを想像しているのである。神様は、全くあなたが想像するような方ではない。」
聖アウグスチヌス。

「わたしたちが神様に『はい』と言っている時にはいつも、私たちは神様を経験しているのである。」
ノリッジのジュリアン。

わたしたちは神様の存在を証明できますか?

「わたしは、・・神を信じます。」(使徒信経)

「初めに、神は...」聖書は当然の前提としてこの言葉で始まります。神様が存在しています。しかし、わたしたちはそれをどうやって知るのでしょうか。わたしたちにはどうやって神様の存在を証明できるのでしょうか。

神様の存在の明快な科学的証拠はありません。それは驚くべきことではありません。結局、わたしたちが神様を顕微鏡で見たり、手術台にのせて解剖したなら、それはもはや神様ではありえないのです。しかし、時代が下ってくると、人々は神様の存在の証明の必要を感じてきました。

人間の社会はすべて、ほとんど例外なく神様か何かを礼拝している、と指摘している人がいます。すべての人間は、自分自身以上の、礼拝するための誰かか何かを生まれながらに必要としている、と言うのです。もしその生まれながらに必要としているものが存在するなら、必要性を満足させる媒体もまた存在する、と仮定することも理にかなっている、と彼らは主張します。

他の人々は、「究極」の問いを持ち出すことで、神様の存在を証明しようとしてきました。彼らの指摘は、すべての出来事には他からの原因がある。そしてその原因が起こるにも他からの原因があって、そうなったのだ、ということです。究極的に、わたしたちは第1原因にたどりつくではないか、と彼らは言います。何かあるいは誰かがそのすべてを動かし始めたというわけです。

他の人々は、自然の中にある美しさや調和を指摘し、その美しさや調和の背後には第1設計者、偉大な建築家がいたはずで、偶然そんなものができるはずがない、と言うのです。

また他の人々は人類愛の現象に注目しました。それは私たちの「自分の利益だけを求める」という自然の本能と相違しています。神様の愛なしには、自己犠牲の愛の現象をどのように考えたらいいのでしょう、と彼らは問いました。世界に最も適応して生き残ったものには、法則があるように思えます。

近頃では、これらの議論は、どれも完全には神様の存在を証明できないと思います。せいぜい、それらは神様に向かって探究している人に、助言や糸口を提供するに過ぎないでしょう。

そして憶えておかなければならない重要なことは、わたしたちの神様への信仰は、論証ではないということです。わたしたちが既に注目してきたように、信ずるには、信仰が要求されます。信仰によってわたしたちは神様の存在を信じます。ですから、信仰によって、その確信は作り上げられてゆくのです。

父なる神

「わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。」(使徒信経)

神様についての知識の最大の情報源の一つは、言うまでもなく、聖書からの啓示です。

聖書は神様が存在することを当然の前提として始まります。しかし、それは神様の造られた自然を表わすことから始めます。

*神様はひとりであり、宇宙の創造者であり維持者であると、啓示します。

*神様は力強い方だけれど、信頼できる方でもあると、啓示します。他の国々のつまらない気まぐれな神々とは違います。

*人格を持ち、民の側から直接近づける神様として啓示します。

*神の民に、他者に対する憐れみと正義といたわりを要求する、道徳的な神様として啓示します。

*国の政治的社会的生活に要求をする神様として啓示します。

旧約聖書の終わりの時代までに、ヘブライ人は既に、神様についてのこれらのことを知っていたのです。しかし、それ以上のことが示されました。イエスという人物の中に、神様は愛と自己犠牲の神様を啓示されたのです。

アッバ、父よ

イエス様は、神様を「アッバ」と呼びかけました。小さな子どもたちが使うアラム語です。私たちの社会の中で「ママ」あるいは「パパ」などが最初の言葉として話されるように、イエス様の時代の子どもたちはアラム語の「イマ」(ママ)あるいは「アッバ」(パパ)を使っていたのです。これらの言葉は、実の両親に対して、特別な愛情をもった呼称として大人も使っていました。ですから、イエス様が神様を「アッバ」と呼ぶ時、彼は神様と御自分の大変特別な関係を表現していたのです。

イエス様は彼の弟子たちにその言葉を使うように教えました。「祈るときには、こう言いなさい。『父(アッバ)よ、御名が崇められますように。…』」(ルカ11・2)。彼は、弟子たちに御自分の神様との特別な関係を分かち合うことを許可されたのです。

聖パウロは、その関係を要約してこう言いました。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」(ガラテヤ4・6〜7)

神様について話すこと

神様について話すことは決して容易なことではありませんでしたし、私たちのほとんどは私たちの使う言葉で神様を表現することは決して努力して完全に達成できるものではない、と認めています。ですから、必然的に、神様を「幾度も定義をし直す」ことに挑戦する人々が出現しました。

近年、ある学者のグループが、タイム誌の表紙に、「神は死んだ」と書きました。彼らの何人かが言うには、「今までの古い方法で神様について話しても、もはや多くの現代人には意味がないことを、劇的な表現で語ったのだ、」ということだそうです。

他の学者たちは「神」という言葉を全く捨ててしまいました。そして「我々の存在の根底」というような言葉をそれに置き換えています。

しかし、私たちの多くは、神様について私たちが使う言葉が不十分であることを認めているとはいえ、イエス様が使われた言葉を喜んで使おうとしています。私たちの言葉では、いくら努力しても、とても達成できるものではない、ということを私たちは知っています。

母なる神

私たちの言葉が、神様について語るのに十分ではない良い例は、神様について話す方法として、神様を男性として語っていることです。

これは避けられないことだったのですが、ユダヤ人たち、つまり男性が支配していた社会の構成員たちは、神様について語る時、たとえ神様を女性のイメージで考えていても、男性として語らなければならないのです。旧約聖書の中で、雅歌では、神様は花嫁として、そして人類は、あまり気乗りしない花婿として描かれています。

実は、神様は男性か女性かということは、現代の悩まされている関心事なのです。14世紀のイングランドの修道女ノリッジのジュリアンは、神様を彼女の「母」、イエス様を彼女の「姉妹」として語っていて、そして彼女と同時代の人々はそれに違和感を感じませんでした。

もちろん、神様を女性としてだけで語ることは不十分です。不十分ですが、しかし間違ってはいないのです。

Q1.「神はいるのか? どんな存在か?」と問われたら、あなたはどんな説明をしますか。

Q2.旧約聖書に啓示された神様のイメージはどんなものですか?

Q3.イエス様は、神様のことを「アッバ(父)」と呼びかけられましたが、それには、どんな意図があるのでしょうか?

Q4.神様の定義に、「私たちの存在の根底」という言葉が紹介されていますが、それから何か新しい気づきがありますか?

Q5.天地の創造者である神様を、女性的に表現している箇所を、あなたはどこか例に挙げられますか?

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第5回のふりかえり

Q1.について。「考える動物」である人間が、自分で考えることを拒否することを「原罪」である、と定義づけているのことに私は驚きました。今まで私は、アダムとエバの罪というのは、神様に従わず、自分の考えだけで生きること、と思っていたのです。人間だけで生きるのもおかしいし、神様だけに頼って、自分で考えることをやめても問題なんですね。

理性 + 啓示 = 信仰

そんな定義を思い出しました。

Q2.テキストには「人民寺院」のことが挙がっていたので、日本の最近の新興宗教を挙げてくださる方が多かったですが、回答の者の中には、「企業の宣伝にのせられたり,便利だからといって,再利用しにくいペットボトルを使ったり,廃棄物の処理方法が確立していないのに,原子力発電の電気を使うことは,日本の社会全体がそうしているとはいえ,よく自分で考えていないせいかもしれません。」というのがありました。

ところで、今日オウム真理教の井上被告に無期懲役の判決が下りました。この判決については、いろんな評価がこれから出るでしょう。しかし、16歳で入信して、教祖の指示にただ忠実に生きてきた彼にとっては、逮捕されてからの生活は、やはり自分自身で考えることを要求される日々だったろうと思います。

Q3.これについては、本当に各自自分で考えていただかなければなりませんが、おもしろい回答がありました。

「ある意味においては、バランスは保たれていると、思います。つまり、低いレベルにおいて、バランスが保たれている、ということです。聖書もそれほど読まず、伝統もそれほど知らず、理性もそれほどない状態では、そう言わざるを得ないかもしれません。実に恥ずかしいことです。したがって、もっと聖書を読み、もっと伝統を勉強し、もっと理性を磨く必要があるでしょう。」

この通信教育がきっかけでいろいろ皆様の関心が深まれば、と思います。

Q4.についてですが、著者は「聖公会には独自の信仰がない」と述べています。17世紀と20世紀のカンタベリー大主教の言葉を引用して、「聖書」や信経に代表される「伝統」が指摘しています。そして第5回で登場してきた「理性」を加えるなら、著者が3ページでまとめているように、「アングリカニズム(聖公会主義)に特性があるとするなら、それは私たちが三つのすべての脚をバランス良く保つこと」になるでしょう。「聖書」と「伝統」という古いものを現代の私たちの新しい感覚の「理性」で考える作業が、教会の中には常になければならないでしょう。

Q5.三位一体についての説明は、洗礼・堅信などの準備として、いろいろなされてきました。

水には「氷」「水」「水蒸気」という三つの形態があるけれど同じものである、という説明。

電気には「物を動かす」(父)、「光を与える」(子)、「ものをあたためる」(聖霊)、という性質がある、という説明。私はこれを説教で紹介したら、ある婦人が「ものを冷やす性質もあるわよ。」と言われたことがあります。

私の訳したカテキズムの本には、次のようなたとえがありました。

一軒の家の前に立つ3人の人物が話している。「これは私の家だ。私がこれを造ったんだから」(父)。「私の家でもある。私がそれを買った(贖った)んだから」(子)。「だが、私の家でもある。私がそこに住んでいるんだから」(聖霊)。

まあ、みなさんもいろいろ工夫してみてください。第6回のテキスト本文にもあるように、私たちの使う言葉で完全に表現することはできませんが、理性で定義し直すことは意義あることだと思います。

表紙について

前回は、ふたりの人物が、一方は三角形、一方は聖書を手にもっているので、これはどちらもアタナシオである、と言えたのですが、今回はあまり特徴的なシンボルもありません。ただ、髭を生やした人物(東方教会の聖職のシンボル)が3人、指を示しあったりして関わっている様子から、「カパドキア三教父」ではないか、と思います。事典を読むと

【カパドキア三教父】

大バシリウス、その弟のニュッサのグレゴリオス、かれらの友人ナジアンゾスのグレゴリオスの3人。バシリウスは博識大器の教会統治者。弟のグレゴリオスは深遠犀利な思索的神学者。ナジアンゾスのグレゴリオスはクリスチャン・デモステネスといわれる雄弁な説教家。3人によって、ニケヤ・キリスト論が完成された。(キリスト教大事典より)

325年のニケヤ会議で問題になった三位一体の教理は、381年のコンスタンティノポリス会議で一応の決着を見たのですが、その二つの会議の間、前半に活躍したのがアタナシオスであるのに対して、後半活躍したのが、このカパドキア三教父、ということになっています。

おわりに

今年の1月から始めたこの通信教育は、これで4分の1が終わりました。毎月、テキストを送ったら、早い時には届いた当日に回答が来たり、テキストの表紙について、あれこれ調べているうちに、思いがけないことを学ばされたり、私自身いろいろ刺激を受けています。

英語のテキストをまだ14回の途中までしか日本語にしていません。幼稚園が休みになり、教会の聖書学習会も夏休みに入る7月中旬から、残りの翻訳に集中しようと思っています。

2000年6月6日
担当者 教育部長 司祭 小林史明



アングリカン