第3章 新約における神の啓示
第2章の旧約における神の啓示で、聖書への接近の一つの方法として、ドラマとして歴史を通しての神の啓示を見てきました。続いて第2幕を見て行きましょう。私たちにとって、それは最も重要な幕です。

第2幕 子なる神の啓示 (福音書)

『お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。』
(ルカ福音書4・17〜21)

 第2幕は、預言の風潮の中で始まります。メシアという神の選んだ解放者が今にも現れることが期待されています。人々はその到来の準備をするように勧告されているのですが、彼がその舞台に立った時、その人は、だれが想像したものとも、はなはだ異なった人物でした。

 イエスはその生涯のほとんどを、ナザレとその周辺で過ごした一大工でした。およそ紀元28年、小さな弟子たちの集団を集めて、彼の故郷であるガリラヤ地方へ伝道に向かわせました。彼は、自分が神の国の近づいたことを知らせるために神によって遣わされてきたのだ、と主張しました。その国を表現するために、物語を語ったり、生き生きとした言葉の絵を描いたりしました。そして、癒しの業を行い、それが神の国のしるしである、と彼は語りました。

 しかし人々は彼の言うことを聞くことができませんでした。彼らは彼の癒しの力に感動しましたが、彼の教えは要求があまりにきびしく、その道は険しすぎたのです。

 イエスは、最後に彼の真の目的をガリラヤの人々に理解させようとしましたが、群衆が彼を取り巻いて王にしようとした時、彼は自分の計画が、失敗したことを知りました。

 そしてイエスはガリラヤを出て、彼の真実を少しは理解し始めた、彼に従う少人数の仲間と過ごすことにしました。彼らは古いイスラエルが成し遂げることに失敗した役割を、代わって成し遂げる新しい共同体、新しいイスラエルの核になる、とイエスは言いました。

 そうしているうちに、イエスとその教えに反対する勢力は、攻撃を始めました。ユダヤ教の権力者たちは、イエスのことを正統な信仰への挑戦者とみなし、イエスとその伝道を滅ぼそうとしたのです。

 イエスは、彼らの脅迫から逃れる代わりに、悲惨な死の危険を知っているにもかかわらず、エルサレムへ行って彼らの前に立ちました。弟子たちは、危険を感じ、ためらいながらも、イエスについて行きました。

 彼はエルサレムで真っ直ぐに神殿に行き、そこをホームグラウンドにしている祭司たちの挑戦を受けます。その成り行きは、避けられるものではありませんでした。弟子たちとの最後の晩餐の後、彼は裏切られ、そして政治犯として、また律法を犯す者として裁判を受け、処刑されました。彼の体は、丁重にしかし、急いで裕福な支持者の所有する墓に葬られました。

 第2幕は謎によって終ります。処刑の3日後、イエスに従ってエルサレムにやってきて、恐れと震えで裁判の間みんな逃げていた、あの同じ弟子たちが、すぐに公然と、イエスは生きていて、今までよりも深い意味で彼らと共に生きていると宣言するのです。

第3幕 聖霊なる神の啓示 (使徒言行録と手紙)

『ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」』
(使徒言行録9・3〜6)

 6週間の間、弟子たちは復活のイエスと親しく直接的な関係で過ごしていました。しかし、そのあと彼は、弟子たちを導き、しなければならないことを教えてくれる彼の霊を送る約束を残して、去って行きます。

 ペンテコステの日、これは小麦の収穫を祝うユダヤ教の祭りの日で、過越しの祭りから50日目ですが、約束した霊が弟子たちのところに来て、彼らは神の新しい解放の福音を説教し始めました。彼らは仲間の市民たちに、先祖の道から新しいイスラエルの共同体に移って、洗礼を受けるように呼びかけたのです。

 新しい共同体は、一般の人々から好意を寄せられていました。彼らは明らかに信心深く、お互いに助け合い、神殿に定期的に祈りにいっていました。しかし、ユダヤ教の指導者たちは、新しいこの宗派を良くは思いませんでした。彼らの敵対はすぐに明らかになりました。そのことは、クリスチャン共同体の中で起こったのです。新しいイスラエルの構成員は、ユダヤ人に限られるべきだ、と信じる人たちがいました。しかしこれに対して、より自由なグループがこの偏向に疑問を持ち始めたのです。

 ユダヤ教の指導者たちは、この宗派への行動の機会を伺っていました。彼らは自由な党派の指導者のひとり、ステファノを異端の罪で処刑しました。その結果、ステファノを支持していた自由な考えの人々に対して、迫害が生じました。彼らはその福音を携えて、エルサレムから逃げて行きました。そして、新しい信仰はエルサレムを超えて、国中に広がりはじめたのです。

 そうこうするうちに、タルソのサウロという、影響力のあるユダヤ教の教師が新しい信仰に回心します。彼は教会の擁護者の長になり、精力的にキリスト教の福音を宣言し、広めることに没頭します。

 第3幕の残りは、教会の指導者たちから、初期のキリスト教会に宛てた手紙を中心に構成されています。それらの教会はエルサレムの外で設立されました。これらの手紙は初代教会に痛みが増し加わったことを証言しています。敵対と迫害、また、非ユダヤ教世界で、信仰と権威について教会が避けることのできない、ユダヤ教と調停する議論などです。

 結び (ヨハネの黙示録)

 ヨハネの黙示録は、迫害の中でできあがりました。クリスチャンはローマ皇帝の公式宗教である、皇帝礼拝を断り、苦しめられ、殺されました。ヨハネの黙示録の著者は、自らパトモス島の牢獄の囚人として生活していて、彼はクリスチャンの兄弟姉妹に、迫害に直面して、強く立ち向かうように、勧告しています。やむを得ず彼は暗号の言葉を使い、そのためこの書物は私たちにはとても難解なものになっています。しかしながら、彼の最初の意味の多くは失われても、神様の究極の勝利の幻を理解することはできます。

Q1. ガリラヤの群衆はイエスにどんな期待をかけていましたか?

Q2.イエスは自分の真の目的をどのように理解していましたか?

Q3.弟子たちのクリスチャン共同体に起こった問題は、何でしたか?それはどのように展開していきましたか?

Q4.教会の指導者たちは、何の目的で手紙を書きましたか?

Q5.ヨハネの黙示録が書かれた目的は何だと思いますか?

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第2回のふりかえり

(表紙の絵について)

第2回では、クイズは出さなかったのですが、表紙について、何人かの人が答えてくださいました。二枚の石の板を持っているので、モーセだという意見でした。その中で、これは出エジプト記34章35節の「イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。」という聖句まで指摘した方がありました。これが正しければ、この二枚の板は最初に神様からもらったものではなく(31・18で貰ったものは、32・19で砕いた)、34・4で、モーセが用意し、彼自ら34・28で書き記したものだということになります。

私もおそらくそうだろう、と思うのですが、この人が頭にかけている布が気になります。出エジプト記では、モーセは、民と顔を合わせる時には覆いを掛けて、神様の御前に出る時、覆いを取るように、読めるのですが、この布はそういう使い方ではないのです。これは「タリート」と呼ばれて、祈る時、肩に掛けたり、頭にかぶったりします。ベン・ハーも戦車競争の前に、青い布をかぶって祈ってましたね。あれはタリートではありませんでしたが。この布の四隅には、房がついているのですが、これを長くすることをイエス様は批判されました(マタイ23・5)。こんなことを考えていると、何となく、この髭の人物は、モーセよりも、ユダヤ教ファリサイ派の人のように思えてきて、私は自信がなくなり、クイズにしなかったのです。ついでながら、申命記5・22、10・3にも二枚の石の板が登場します。

(第2回の理性と宗教、科学の問題)

第2回は、旧約の大きな流れを理解することが主でしたが、その前に、理性と啓示と信仰についての、著者の理解が述べられています。

理性では、神が究極の存在であること、すべてのものの背後におられることなど、想像できます。これは、第1回で、回心のないキリスト教は、魅力的な哲学程度のもの、というのに似ているでしょう。私は、次のように考えました。

哲学 + 回心 = 信仰
理性 + 啓示 = 信仰

哲学はPhilosophy(知恵を愛する)という意味ですが、理性と似たようなイメージです。また、啓示は神様がご自身をあらわす、一種の語りかけです。回心は、神様からの呼びかけに人間が応えることですから、同じことを神様と人間の、それぞれの立場で表現した言葉でしょう。

これで、Q1.とQ2.は答えたことにしてください。ただ、テキストの最初に、「科学と宗教」についての文章の引用を書いたので、誤解されたみたいです。「科学」を「理性」の一例として受け取り、科学に啓示が加わることで、信仰ができるような読み方をさせたようです。

この「科学と宗教」の問題は、Q3.と関係があるのです。創世記の1章から11章は、科学的な目でみたら、デタラメもいいところです。しかし、これを書いた人々は、「どのように(How)世界ができたのか」ということには、関心はありませんでした。「なぜ(Why)神様は世界を造ったのか」ということに関心があったのです。人間の持つ大きな疑問に対して、彼らの信仰的立場からの回答をして書いたのです。

受講者の中で、最近の英国のキリスト教聖職者を対象にしたアンケートで、「103人のうち、天地創造説を字義通り信じる者は3人。アダムとイブが実在したと考えるのが13人」という結果が出た新聞記事を送ってくださった方がありました。

「科学と宗教のふたつの学問は、異なった原理の下で行なわれているものなのです。」という引用文や、創世記11章までを書いた人たちの意図を考えると、新聞記事の3人なり13人の方が正しい聖書の読み方をしていない、ということにならないでしょうか。日本に50万年前の原人が存在したことも、私は素直に受け入れられます。

(第1幕について)

ここにイスラエルの歴史が語られています。そこで、私なりに旧約の舞台の流れを説明します。

古代の四大文明の内の西のふたつ、メソポタミアとエジプトの間が、旧約聖書の舞台です。アブラムの父テラが、アブラムたちを連れて、東のメソポタミアを後にした所から(これは創世記11章27節からですが)話が始まります。

アブラムはアブラハムと改名し、カナンと呼ばれる現在のイスラエル周辺に住み着きます。イサク、ヤコブという3代がここに住むのですが、この地に飢饉が起こって、ヤコブの一族は、穀物の豊かなエジプトに移住します。このヤコブは、創世記の32章で神様と格闘して、イスラエルという別名をもらったことは皆さんご存知でしょう。そしてヤコブの12人の息子たちのうちの下から2番目のヨセフが、売られてエジプト人の奴隷になるのですが、夢解きの才能を発揮して、宰相になります。ヨセフが父や兄弟をエジプトに引き取ったのでした。この12人がのちに、イスラエルの12部族と言われるようになり、部族の名前が12人の息子たちにちなんだ名前であることも覚えておいてください。

西の国エジプトでの長い寄留生活のうちに、イスラエル人たちは奴隷の身分になります。そして、先祖アブラハムに約束されたカナンを目指して、モーセに導かれて、エジプト脱出をします。途中シナイ山で十戒を授かり、カナンに定住した時は、士師と呼ばれるカリスマ的指導者(デボラ、ギデオン、サムソンなど)が、危機を救うのですが、ペリシテ人など、鉄器を持つ強力な外敵が出現するので、士師によって急に集められた義勇軍ではなく、常備軍とそれを統括する王の必要を人々は感じます。

預言者サムエルはサムエル記上8章で、王制はいかに人々を苦しめることになるか、指摘するのですが、民の求めに神様も妥協して、サウルが王になります。その後、ダビデ、ソロモンという優れた王が出ましたが、神様の都合より、人間の都合を優先させて、人間の理性だけで生きてゆこうとして、国は分裂し、北イスラエル王国がまず崩壊。南のユダ王国も東の国バビロニアに滅ぼされて、バビロン(メソポタミア)に捕囚の身になります。

Q4.の答えだけは、本文に具体的には書かれていませんでしたが、だいたい想像がつくでしょう。アダムとエバが、神様からの言葉(啓示)を守り、神と共に歩む、という生活を放棄して、自分の理性?だけで歩んだように、カナンに定着した時、士師を中心とした信仰共同体には満足しないで、神様よりも王様をいただいて、人間の知恵や力(理性)だけで、歩もうとしたことが、結果的には、バビロン捕囚ということにつながってゆくのです。

バビロンの捕囚から解放されて、エズラやネヘミヤといった指導者により、神殿や城壁が再建され、神様の律法を守ることを大切にするのは良かったのですが、モーセや預言者たちのような広い洞察を忘れて、彼らは狭い律法主義と自分本位(本意はミスプリント)の国粋主義になりました。イエス様がしばしば批判されたとおりです。

神様がアブラハム、そしてイスラエルの民を選んだのには「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福を受ける」(創世記12・3)という、世界全体のために祝福の基となる目的があったのに、イスラエル人の多くは、それを忘れたんですね。

最近「聖書のことがよくわかる本」(鹿嶋春平太著・中経出版)や、「週刊聖書」(なあぷる)が出ました。

今回は、新約です。どうぞ聖書に親しんでください。

2000年3月8日(大斎始日)
担当者 教育部長 司祭 小林史明


アングリカン