第2章 旧約における神の啓示
『科学と宗教の間の論争は、過去少なくとも140年間、つまり、チャールズ・ダーウィンの「種の起源」の出版からは、間違った論争でした。ふたつの学問は、異なった原理の下で行なわれているものなのです。科学者はクリケットをし、神学者はチェスをしています。ところが、ふたつのゲームが入り乱れてしまっているのです。チェスのクイーン(女王)を盤上のQ7の位置に動かしたことで、「ボールに触ったからアウトだ」と抗議しているようなものです。』
ウィリアム・リースモグ

 信仰によって「神は存在する」と信じることを選んだ人々は、理性によって、その神について、いくつかのことを論じることができます。

 私たちは、理性によって、神が究極の存在であり、すべてのものの背後におられるということを知ります。神は唯一であり、果てのない、永遠で、全能の、測ることのできない存在であることに気づきます。しかし、理性は、ただ私たちをそのあたりまで連れて行けるだけであって、私たちが理性だけを頼りにするなら、教会が教える神について、はっきりと理解することは困難です。理性だけでは、神についての、いろんな考えに行きつくだけです。

 信仰と理性との間の隔たりに橋をかけるために、私たちには助けが必要です。そして神は、私たちに神ご自身を「啓示」するという方法で、その助けを与えられるのです。

 教会が啓示を語る時、私たちは、自分たちの信じていることが、単なる人間の思索の結果ではなく、まさに事実であると考えるのです。それは神によって、特定の方法で、特定の時に、特定の人々に啓示された真実です。そしてこの啓示の記録は、ユダヤ人とクリスチャンの書物である聖書の中に見出されます。

啓示のドラマ

聖書に近づく方法のひとつとして、「聖書は、神が歴史に啓示した演劇的表現」と考えることができます。3幕で構成された啓示のドラマです。

・ 1幕は、父なる神の啓示の記録
・ 2幕は、子なる神の啓示の記録
・ 3幕は、聖霊なる神の啓示の記録

また、このドラマには序幕の創世記の1章から11章と、結びのヨハネの黙示録が付いています。

序幕

(創世記1章〜11章)
 創世記1章から11章を書いたのは、人間の持つ大きな疑問に答えようとした人々です。神はなぜ全世界を造ったのでしょうか。なぜ男と女を造ったのでしょうか。そして何が間違っていたのでしょうか。この部分を書いた人々には、"いつ"とか"どのように"、ということへの関心はありませんでした。彼らは歴史や科学を書いていたわけではないのです。

 一連の物語やたとえ話の中で、私たちは、神がすべてを造られ、男と女は被造物の頂点であると知らされます。彼らには、服従するか、しないかの選択の自由を与えられて、後者を選びました。彼らは、自分たちを楽しませる方を選んだのです。

 ここで私たちは、最も根本的な人類の苦境に直面します。男と女は、神との親しい関係に生きるように創造されました。しかし、私たちは自分たち自身の道を行くことを選んだのです。私たちは、本来造られたようにではなく、何かそれとは違ったものを選んでしまいました。私たちは自分たちの選択した悲惨な結果の中で生きているのです。

 しかし神は、それでも被造物を愛し、世話をします。神は私たちを見放しません。ノアの洪水の物語の中で、神は男と女に、新しい始まりを提案しました。そしてその中で、神についての基本的な真実を啓示しました。神は私たちを見捨てません。たとえ私たちがどんなことをしようとも。

 舞台が設定されます。一連の美しい物語とたとえ話を通して、神と創造についての根本的な事実を私たちは知らされます。神がなぜ創造し、なぜ被造物は、かき乱されているのか、教えられます。そして、私たちは、ドラマのスターに紹介されます。ひとりの神が、人類を彼の下に引き戻す目的のために、彼自身を男と女に啓示する用意をしたのです。

 第1幕 父なる神の啓示

(創世記12章〜旧約の終り)
 第1幕の始まりから、おおよそ私たちの知る歴史の部分に入ります。私たちはヘブライ人の先祖にさかのぼり、アブラムと彼の民族がエジプトに住みつくのを見ます。彼らの運命は、逆境へと入って行き、虐待され、奴隷にされます。

 しかし、神はご自身をモーセに示されます。モーセは、ヘブライ人たちを捕らわれの身から導き出し、彼らに崇高な召命の道を紹介します。彼らは、神が特別の親密な方法によって彼らを選び、神の民になり、彼らは神を彼らの主として受け入れなければならないことを、知るようになります。この神との特別な関係は、同意あるいは約定という契約の中で、その形態と内容が与えられますが、これは、彼らがシナイ山で神と行なうことです。

 モーセは死に、イスラエルの新しい民は、その放浪の生活をやめ、カナンの町に定住します。ここで彼らは、他の国々の前にさらされ、他の国々の生活の影響を受けます。彼らはまわりの国々のようになることを決断し、サウルやダビデそしてその後継者たちの王国を作り上げます。

 しかし、神が彼らを選んだのは、このようなことのためではありませんでした。サムエルやナタン、そして他の多くの預言者たちは、神が特別な目的のために彼らを選んだこと、そしてもし彼らがその目的に忠実でないなら、彼らはその結果、報いを受ける、ということを思い出させました。

 事態は益々悪い方へと進みます。王国は二つに分裂し、どちらの勢力も堕落と不道徳へと落ちてゆきます。彼らは外国の軍隊によって征服され、紀元前587年、その指導者たちは、鎖につながれてバビロンへ連れ去られます。

 『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。』
創世記1章1〜2節

 『わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物をささげても、わたしは受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることのなく流れさせよ。』
アモス書5章21〜24節

 そうするうちに、どうしてこんなことが起こったのか、と苦境に陥って考えるようになります。アモスから始まった、霊感を受けた解釈者たちの伝統は、イスラエルの没落の原因を、神の望んだような民にならなかったことにある、としました。

 しかし、神は、そんな彼らを見捨てないのです。エレミヤやエゼキエル、そしてイザヤ書の無名の著者は、バビロン捕囚を訓練と刷新の時、と見るようになります。彼らはパレスチナに帰ると、神の下に新しい国家を再建する決心をします。しかし、彼らはモーセや預言者たちのような広い洞察を忘れて、彼らの"刷新"は、その焦点を、狭い律法主義と自分本意の国粋主義の中に見出しました。

 第1幕の終りで、多くの男女は、その最初のものと、かわりはありません。神と共に生きるように造られながら、彼らは自分自身の道を歩むことを選び、その結果は悲惨なことになります。しかし、小さい信仰的な少数者である、信仰深い残りのイスラエルは常に存在し、神は決して自分たちを見捨てないということを忘れません。彼らは「確かにいつの日にか、神がその民を救われる」という確信を持っています。そしてその信念は、育って、神はこれを解放者、メシアを通して行われる、と信じるのです。

Q1.理性によって、私たちは神様の、どんなことがわかりますか。

Q2.理性に啓示が加わることで、何が得られますか。

Q3.創世記1章から11章まで書いた人々の目的は何ですか。

Q4.カナンに定着した時、人々は何を間違えたのでしょうか。

Q5.バビロン捕囚から帰還した人々の信仰は、モーセや預言者たちのものと、どのように違いましたか。

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第1回のふりかえり

 119名の受講者(2000年2月2日当時)で、個々に回答への評価を書いて返送する余裕がありません。ここでは、前回のテキストの梗概を述べ、その後、設問への答えをしようと思います。翻訳物ですので、理解しにくかった方はその補足説明と思ってください。その前に、先ず、

(クイズについて)

私はこれを手にした時、約1ヶ月、何の絵なのかわかりませんでした。ふと絵を横にしてみたら、どうもこれは舟の絵であって、下の方にある棒は、矢ではなく、櫂だとわかりました。それでクイズにしました。

答えは、「嵐を静める」あるいは「突風を静める」という見出しのマタイ8・23〜7、マルコ4・35〜41、ルカ8・22〜25の筈。三つを比べ、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」という表現を根拠に、マルコを選んだ人がいました。よく調べた方だと思います。

また、今回のテーマは「信仰」ということですので、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」(マタイ)、あるいは「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」(ルカ)あたりを根拠にし、回答の中にイエス様の言葉を記入した人もいました。それぞれ、立派な理由だと思います。

「信仰」をテーマにしたこの第1回で、おそらく著者は「信仰」というイエス様の言葉を意識して表紙を選んだのだと思います。尚、英語の場合は、マルコでもfaith(信仰)と訳しているものもありました。

(第1回 信仰 の梗概)

 最初に「信仰」のところで、著者は人類すべてが信仰を持っていることを語ります。唯物論者も人文主義者も無神論者も、証明はできなくても一つの理論とか主義を信じていることは、広い意味で「信仰」なんだ、と言います。そしてその信仰へ導く、何らかの「神」と呼べるものを持っていて、クリスチャンには、それがキリストである、と結論づけます。

次の「クレド」では、伝統的な「信じる」という意味に加えて「私の心を置く」ということだと説明します。イエスを主とする忠誠と献身の誓約の言葉と理解するように主張します。

 「回心」は「振り向く」「方向を変える」といった意味であり、恋愛のように、劇的なものもあり、また感情をあまり伴わないゆっくりとしたものもあります。パウロとアウグスチヌスの回心は、それぞれの代表的なものです。一般に劇的転換と思われているC・S・ルイスの回心は、実は時間をかけた知的格闘と熟慮の末の回心であったことを説明します。また、マーガレット・ミードの例は、彼女には幼い時から信仰があり、それにかたちを与えるものが、彼女の入信であったことが語られます。

回心のないキリスト教は哲学だが、回心が加わることで信仰のことがらになるので、信仰生活に入る基礎は回心にある、と結論づけます。

「間違った回心」では、回心をアスピリンや精神安定剤のように見なしたり、到達点と考えているキリスト教を著者は批判します。回心はイエス・キリストの福音を生き、探求する旅の始まりと考えてほしいと言うのです。

Q1.について
伝統的には「信じます」という意味だ、と教えられてきました。ところが著者は「私の心を置く」という風に説明しました。

私は5年前に子ども向けのカテキズムを訳したのですが、「祈り」について解説する時、「祈りとは、精神と心を神様のおられる高いところに持ち上げることです。」と説明していたのを思い出しました。

聖餐式の感謝聖別に入るところで
司祭 心を神に
会衆 主に心を献げます。
という言葉のやり取りがあります。

英語では Lift up your hearts
We lift them to the Lord

 この言葉で、礼拝の核心部分に入ってゆくのですが、このテキストの著者の説でゆけば、信経の時、私たちの心を、もうそこに集中させることを期待しているようです。

 ここで私が連想することは、ソロモンが神殿を建てた時の祈りです。

 「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。 わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」(列王記上8章27〜29節)

 これは神様の態度を期待している祈りですが、「夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。」このあたりが、「私の心を置く」というのと非常に近いのではないでしょうか。

 人間と神との違いはあっても、心にかけて共にいるように目をかけ、気にかけていること、礼拝であれば、それに集中すること。そんなことが信経を唱える時に意識されたら、と思います。

Q2.について
いろんな受講者の回心を語ってくださってありがとうございました。

 私は、生まれてすぐに幼児洗礼を受け、そしてお祈りや聖書の話があたりまえの生活をしていたので、あまり書けません。ただ、他の宗教の人に助けられたり、諭されたりしたことはたびたびあって、クリスチャンの傲慢さに気づかされたことはしばしばです。変な話ですが、そんな時、回心を経験するのです。イエス様はユダヤ教だけが絶対だと思っている人々の傲慢さを指摘したと思うのですが、私もまさにそんな指摘を受けて、何度も「回心」した覚えはあります。

 「回心」と「悔い改め」はどう違うか、と質問を受けました。英語でも「回心」は「conversion」、「悔い改め」は「repentance」が一般的で、語源は違いますが、「同義語である」とキリスト教大事典では記載しています。

 Q3.について
聖書や歴史上の人物の回心を挙げてくださり、ありがとうございました。皆さんは聖人伝など読まれませんか。

 私は洗礼名がフランシスなので、アッシジのフランシスの伝記や映画のビデオなど見て、自分の召命がぐらつく時などそれによって、立ち直ったことが何回かあります。

 Q4.について
「回心」は、信仰生活の出発点のようなもの、という意見が多く書かれていました。私もそう思います。具体的に言うと、自分の生活の中心軸が、キリストになるということではないか、と私は思っています。

 イエス様が好きで、イエス様を追っかけて、もっと彼のことを知りたい、という体験があるのではないでしょうか。そしてそのうち、ただ身近に感じたいだけでなく、自分がキリストを演じたい、と思うようになるのではありませんか。「キリストのふりをしよう」(C・S・ルイス)という文章を彼の「キリスト教の精髄」という本で読んだことがあります。

 Q5.について
ご利益宗教などは、回心をアスピリンとして売っている代表的なものではないか、という意見が多かったようです。しかし、中には現在の教会の中にある「だらだらと何でも許す、ただの仲良しクラブ的な空気」は、アスピリン的ではないか、という指摘を受けました。教会が、現実からの逃避場所「駆け込み寺」になるのではなく、自分の使命を再確認し、社会に出て行く力が与えられる場であってほしいと願います。

 著者の「序文」にある聖公会のプロテスタント的要素とカトリック的要素について質問を受けましたが、少しずつ学んでいきましょう。テキストに、だんだんと登場してきます。

 皆さんからの回答や質問には、この「前回のふりかえり」でふれてゆこうと思いますが、大きな問題になると、この紙面では足りません。

 教育部は皆さんの牧会者ではありません。教会生活での疑問は、皆さんの直接の牧師に質問してください。私たちは、あくまでも補助的教材の提供者に過ぎません。

 2000年2月2日 被献日
(文責・教育部長 司祭小林史明)



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