第1章 信仰(含・序文)
序文

アングリカン(聖公会員)になるということは、独特の伝統…英語を話す人々の伝統を引き継いだクリスチャンになるということです。キリスト教の歴史の始めから存在した教会に属するのです。アーサー王と円卓の騎士や、アイオーナのコロンバ、リンダスファーンのエイダン、ノリッジのジュリアン、ジョン・ウィクリフ、エリザベスT世女王、ウィリアム・ウィルバーフォース、C・S・ルイス、そして世界中にいる7000万人の現代人と信仰の遺産を分かち合うということなのです。

私たちには、独自の教理はありません。普遍的なキリスト教会の教理として、聖書と信経の中に秘められたものだけを教理としています。そのため、私たちのことを「優柔不断で、どっちつかずである。」と言う人たちがいます。確かに私たちは人々がユニークな賜物を持ち続けられるように、寛容さの実践と自発性を認めるので、それが私たちを優柔不断だと思わせてしまうのでしょう。私たち聖公会は一つの教会の中に二つの、一見対立する信仰や礼拝の形態を一緒に抱えて歩んでいますが、それはカトリックとプロテスタントの要素です。これらの二つの形態は、共に進歩的な議論をしますし、それぞれ、私たちの共通の信仰の重要な部分を強調しています。プロテスタントの要素としての強調点は、信仰と回心と贖罪です。カトリックの要素としての強調点は、恵みとサクラメントと受肉です。共に緊張の中で存在することによって、キリスト教会の中にある広く異なった意見に関心を向けているのです。それは、私たちの目指す一致が、単なる数の上での一致ではなく、多様性の豊かさを含んでいる一致であることを証明しています。でも、聖公会はそれらの真実を整然と詰め合わされた中に束ねたような教会ではないと確信しています。

私は50年以上聖公会員として過ごしています。私は聖公会員の家庭に生まれ、数週間で洗礼を受け、12歳の時に堅信式を受けました。私は他の教会を知りません。

聖公会は私のすべての必要に十分に答えてくれました。私に信仰を教えてくれています。サクラメントで私を養ってくれています。私の反抗を寛容に受け入れ、私自身について考えることを認めてくれているのです。

私には偏見があるかも知れませんが、恥ずかしいとは思っていません。私はこの古い伝統的な教会を愛しているのです。
                    著者・グレアム・A・ブレイディ

使い方について

この教材の学習にはいろんな方法があります。大人の堅信準備として使えますし、聖公会についての探求、また聖公会員が自分たちの教会の教えや歴史について一層理解を深めたい場合などです。グループ学習でもいいし、個人の勉強としても使えます。

 あなたがどのような使い方をするにせよ、聖霊がその教えへと導いて、十分満足した結果を与えてくれるでしょう。関係した聖書の箇所を見て、時間をかけて反省し、問いかけてください。神様に問いかけることのほとんどは、あなたがその真実を探す中で、答えが与えられるでしょう。

 全能の神よ、すべての心は主に現れ、すべての望みは主に知られ、どのような秘密もみ前に隠れることはありません。どうか聖霊によってわたしたちの心を清め、まことに主を愛してみ名の栄光を現すことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン

第1章 信仰

『先ず信じなければ、どうして理解することができようか』(聖アンセルムス カンタベリー大主教 1033年〜1109年)

『私はロンドンのイーストエンドで労働者階級の家庭に育ち、戦争中に爆撃を受け、エセックス州の家に移ってきました。そして何かを捜し求める深い思考の若者として、そこの聖公会の教会に連れて行かれました。そこでの交わりが、それまでに持っていた私のいくつかの質問への答えの始まりになりました。そこで私はキリスト教信仰の実体を感じました。そして確かにそうだと確信しています。それは大変深く意義のある経験の始まりでした。それは生きた神様との真の出会いでした。』(ジョージ・ケアリー カンタベリー大主教)

世界の三大宗教の信仰は、アブラムに始まります。アブラムは神様によって、それまでの親しい既知のものを後に残して、未知の世界へ旅するように召されました。アブラムは彼の信仰によって神様に従ったのです。何百万人もの男女が彼の生き方に続きました。しかし、他の何百万の人々にとっては、信仰は障害です。彼らは「私はそれを見なければ、信じられない。信仰によってものを受け入れることはできない。」と言います。しかし実際は、彼らも既に『信じる』という行為を行っているのです。私たちすべてが持つ基礎的な主義とか信念とかは、それがどんなものであっても、私たちはそれを『信仰』によって受け入れているのです。

 唯物論者は、ただ物だけが存在している、と言います。だから霊的と言われるもの、愛とか嫌悪とか恐れ、勇気などは、幻覚であると言うのです。

 しかし、たとえそれが真実であるとしても、唯物論者はそれを証明することはできません。彼らは自分たちの信仰の行為によって、それを受け入れることを選択しているのです。

 人文主義者は、人間こそが唯一の重要な真実である、として生活を秩序づけています。しかし、彼らもそれを証明できません。彼らの『信仰』によって、それを受け入れることを選択したのです。

 無神論者は、「神はいない」と言いますが、彼らは、有神論者が神様の存在することを証明する以上に説得力を持って、「神はいない」ということを証明することはできません。彼らは『信仰』によってそのことを受け入れているのにすぎないのです。

 もちろん人々の大多数は、このような方法で自分たちにレッテル貼りなどしません。大多数の人はそんな特定の信念を持っているわけではありません。しかし、現代の男女の多くは、富を蓄えることと物を持つことで、幸福と安全が獲得できる、という信念、ひとつの素朴な信仰を持っているのです。その信念を支えるほんのわずかの証拠かもしれませんが、そこには確かに信念の現れである『信仰』が存在しているのです。

 信仰というのは、私たち人類の気質の一部として与えられているものです。だれもがそれを持ち、すべての人は、彼らの選ぶどんな信念であっても、信仰へと導く神を持っています。クリスチャンは、イエス様を主とする信仰を選んだ人々なのです。

クレド

このラテン語は、伝統的には「私は信じます」と訳されています。しかし、ラテン語の「信じる」という言葉は、opinio であり、それは意見とか知的な主張をするということです。しかしクレドには、もっと重要な意味が含まれています。それは「私の心を置く」という意味で、信仰と委託の誓約を示す言葉です。

 キリスト教の文脈でのクレドは、キリスト教信仰の誓約、イエス様を主とする、忠誠と献身の誓約なのです。

回心

 教会にはこの信仰の誓約のための専門用語があります。それを「回心」と言っています。

 「回心」という言葉は、聖公会のあるグループから、嫌疑の目で見られています。それは感情的な覚醒運動の姿や、テレビの福音伝道者を思い起こさせて、そのことに対しては多くの聖公会員は避けて出て行きたくなるのです。劇的な回心というものが人々の心に浮かぶのですが、しかし、回心の過程は、普通はもっと穏やかなものなのです。

 回心という言葉は、ギリシャ語のストレファインから来ていますが、その意味は「振り向く」とか「方向を変える」ということです。それは、新しいものを支持して、古いものを後に残して出て行くことを意味します。新しい自覚の可能性に、自分を明け渡すことなのです。そして時には、常にではないですけれど、激しい個人的な感情が伴うことがあります。

 それは恋に陥ることに似ています。ふたりの人が出会い、お互いに引き寄せられます。彼らは共に時間を過ごし、考えや感情、希望、夢を共有します。彼らの関係は、お互いが自分を相手に委ね合う決断をするまでに育って行きます。彼らの心を与え合うまで。

 彼らの委ねるという行為には、激しい感情を伴うこともありますし、伴わないこともあります。ある人々は、愛について、熱情的に語ります。また他の人々は、もっと抑制して語ります。恋愛の感情表現はどんなものであっても、委ねることにおいては、共通の事実です。

 聖パウロは、劇的で感情的な回心を、ダマスコ途上で経験しました。ヒッポの聖アウグスチヌスは、「自分の回心が意識化されたのは、実際にそれが起こってから何年も後のことだった。」と公言しています。彼らはどちらも信仰の巨人です。

 聖公会の学者であり、作家、放送説教者のC・S・ルイスは、彼のキリスト教への回心はバイクに乗ってウィップスネード動物園へ遠出した時であったと、言っています。彼はその経験を次のように説明しています。「私たちが出かける時、私はイエス・キリストが神の子であるとは信じていなかったが、動物園に着いた時、私は信じていた。」しかしC・S・ルイスの回心は数年にもおよぶ知的格闘と熟慮のあとのことでした。1929年に、「神は存在する」と言って、敗北を認めるまで、彼には準備の期間があったのです。でも彼が自分自身の回心のことを「全イングランドを最も落胆させ、嫌がらせた転換」と表現するには、更に2年かかりました。

 アメリカの人類学者であるマーガレット・ミードは、不可知論者の家に生まれました。彼女が11歳の時、聖公会員になる意志を公表しました。彼女の両親はもちろん彼女を思いとどまらせようとしました。後に彼女は次のように書いています。「私の母の行なう宗教への挑戦は、大変観念的なものでした。彼女は私にドイツ語のキリスト生誕の物語を読ませようとしました。7歳の私に、受肉の物語の未熟さを示すためでした。でも、それは全くの失敗でした。彼女のしたことは、ただ私に見当ちがいの威信を見せつけているように私には思えました。私の望んでいたものは、既に存在している信仰にかたちを与えてくれる宗教形態でした。」

『回心がまず第1に来なければなりません。私たちは福音伝道の考えを、教会の福音派の活動への傾倒のように考えていました。しかし、霊的なルーツは聖公会のカトリック的な側に、より根拠をおいているので、福音伝道に高い地位を与えることを恥ずかしいとは思いません。私には福音伝道の強い圧力の様子に、実際のところ躊躇する感情を持っていることを告白します。しかし、私たちは聖霊への愛を持たなければなりません。他者と私たちとの信仰の分かち合いの用意ができていなければなりません。個人的な求道の意志、全霊でイエス・キリストに答えること、それについて全く私は疑念を持っていません。』(キース・レーナー オーストラリア聖公会首座主教)

 回心についての大切なことは、それがどのように起こるか、ではなく、それが起こるかどうか、ということです。私たちがクレド(心を置くこと)を言えるようになる前に、私たちは、私たちの信仰を主であるイエスに置かなければなりません。これが回心です。

 回心前、キリスト教は、せいぜい魅力的な哲学程度のものでした。それについて、私たちは何かを知ることができます。ただ、回心のあとは、キリスト教は信仰のことがらになります。私たちはそれを知り、それはまた私自身のものになるのです。

『人々が神を信じることをやめた時、彼らは何も信じなくなります。決してどんなものも信じなくなります。』(G・K・チェスタトン)

間違った回心

いくつかの教会は回心をアスピリンのように売っています。それは痛みを和らげます。彼らは、もし私たちがキリストに信頼を置くなら、すべて私たちの悩みは消える、と言います。しかし、実際は、おそらく正反対でしょう。

 イエス様は、彼の弟子たちに精神安定剤を通しての平安を約束したのではありません。彼の約束は、おそらく古い聖歌の歌詞の中に一番良く表現されているでしょう。

 満足した平安な漁師たち、
 彼らが神様の平安を知るまで、
 彼らの心はいっぱいに満たされ、
 そしてまた、打ち砕かれるのだ。

 回心は到達点ではありません。それは旅の始まりなのです。それは快適さの確信ではありません。それは冒険の約束なのです。疑いと思慮からの退却ではなく、イエス・キリストの福音を生き、探求することへの招待、永遠の生命への招待なのです。

Q1.クレド(信経)は、伝統的にはどのように訳されていますか。著者はそれとは違った説明をしていますが、あなたが礼拝でクレドを唱える時、どんなことに意識を向けたらいいと思いますか。

Q2. あなたは回心の経験がありますか。ありましたら簡単に自分の回心について書いてみてください。

Q3. パウロの回心、アウグスチヌスの回心の他にどんな回心をご存知ですか。ご存知でしたら、それらを挙げてみてください。

Q4. 回心は、私たちキリスト者にとって、どんな意味を持っているとお思いですか。あなたの率直な考えをお書きください。

Q5.あなたは、回心をアスピリンのように売っている例を知っていますか。あなた自身は教会にアスピリンを期待していますか。

(注)

テキスト中の斜体文字の文章は、元のテキストでは参考として欄外に置かれていたものです。



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